2016年2月22日月曜日

打破さるべき誘惑

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。(マタイ26・41)
 
 主のご命令のどれひとつもお互いに衝突したり、置き換えられるものはありません。祈りは目をさますことに代るものではありませんし、祈りは目をさますことを成し遂げる以外のことをなすのです(※)。目をさましていない祈りは妄想であり、祈りなくして目をさますのは空しいのです。

 それゆえに、場所であろうと人であろうと話の種であろうと、故意にも軽率にも誘惑に陥らないようにしましょう。誘惑はイエス様に対する私たちのくちびる(祈りのことば)を守れない危険にさらす傾向があります。恵みが私たちのくちびるにますます注がれるように祈りましょう、主のくちびるに注がれたように。そうすれば私たちの話はいつも恵みをともなうことでしょう。願わくば、「くちびるは没薬の液をしたたらせるゆりの花」(雅歌5・13)であるように、くちびるを清くやさしく愛らしいものとしてくださいますように。

イエス様、主よ、私はあなたのものです。私の信仰を守り、みそばにおらせてください。
私のうちにあなたの御臨在を輝かせてください、私の天国への全行程を元気づけるために。
イエス様、私はあなたの御足のもとにひざまずきます 。あなたこそ私のすべてのすべてです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-22-temptation-defeated/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97217です。

短文だが訳出に困難をきわめ、意味不明の文章となってしまいました。 ※誤訳の恐れがありますので、原文を併記します。Trusting does not supersede watching; it does but complete and effectuate it.

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(15)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスのもう一人の仲の良い学友は、彼女が「完全に心酔した愛情をもって愛した」と告白していた「ダイアナ」であった。この幼い少女は「学校の太陽」であったが、フランシスに似て長い間、罪の赦しを願い、祈っていた子であった。ある日、ダイアナは学期も終わろうとするころ、救い主の愛を突然悟り、その心が燃やされ、その喜びはただちに目に見える形で顔や声に現われた。
 ダイアナはすぐに友であるフランシスを探し、自分の喜びをすっかり話した。メアリーがもうすでに話していたことだが、「福音」を繰り返し話すのだった。「主のところに行くだけでいいのよ、そうすれば主は受け入れて下さるから。今でも主はあなたを愛しておられるのよ、たとえあなたがそのことを知らなくっても」
 けれどもフランシスはクリスマス休暇の間家に戻っており、「みじめな薄暗さの中におり、相変わらず絶望していた」) 

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