2016年2月21日日曜日

神の充足は充分以上のもの

何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。(2コリント3・5)
 
 私たちは、自分自身の特別な能力、地位、その他のどんなものにもほとんど重きを置きません。しかし、一人の普通の人であっても、その生活がひとたびほんとうに神様にささげられたのなら、その影響力は単なる見せかけのクリスチャンがどれほど多くいてもその力にまさっていることを神様が何度も示して来られたことを思い出しましょう。

 そのような生活はギデオンの三百人が通常の武器を携えるのではなく、角笛やたいまつや空の壺をたずさえたことに似ています。主は他のものを全然用いず、その人たちによって大きな解放の働きをなさったのです。なぜなら、主は力あるものをろうばいさせるために、この世の弱いものを選ばれたからです。

あなた自身を信頼しないで、主の恵みに信頼しなさい。そうすれば十分です。 
あらゆる試みの中であなたは主の万全の備えのあとを行くべきです。 
自分を信頼しないで、主の愛に頼り、変らない愛に憩うことです。 
そうすれば、生であろうと死であろうと、とこしえの流れが明らかになるだけでしょう。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-21-gods-sufficiency-more-than-adequate/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97216です。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(14)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 その年の八月にフランシスは初めて全寮制の学校に入った。彼女の舎監となった婦人はベルモントのテード夫人だったが、献身的なクリスチャン女性であった。彼女はその半年間が彼女にとって長い間勤めた学校の仕事の終りになることをわきまえていたので、生徒たちの大切な霊的祝福の時となるように大層心を配っていた。少女たちとともに集団のときであろうと個人のときであろうとも両方にわたって、それぞれの魂を気づかっては、絶えず祈りもし、話もした。その結果多くの回心者が起こされた。フランシスの親友であった二人も心が特にゆさぶられた者たちであった。
  一人はメアリーという名前の少女で、フランシスに罪責感にさいなまれるよりももっといい方法があることを示す最初の人となったようである。彼女はフランシスに主イエス様はどんな小さな子どもであろうと無条件に招かれていることを思い起こさせ、自分がまだ子どもだと感じているなら是非イエス様御自身のところへ直接行って自分はあなたを愛したいのだが、できないでいるのだと話してごらんなさい、そうすれば主が教えて下さることは請け合いだとやさしく懇願した。この確かな助言をフランシスは「暗黒と恐れおののき」のうちに実行したが、喜びの夜明けとまではまだなっていなかった。) 

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