2016年2月17日水曜日

律法から愛の拘束へ

振り仰ぐ ミモザたわわに 青に映ゆ N氏聖餐 よみがえる如※

主が彼らを私に渡してくださったら、私はあなたがたのかしらになりましょう。(士師記11・9)
神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。(使徒5・31)

 私たちがどうすることもできない罪の重荷をもって、何をさておいても先ず主のところに来たとき、主のところに行くしか手立てもなく、主は捨てられないというおことばを受け取る以外に救いはなかった。そして、そう信じて私たちは魂の安らぎを見出した。主のことばは真実であり、主が罪を取り去ってくださるのはほんとうだと知った。 

 ある者はその場ですぐに主に自らのいのちをささげ、もはや自分自身のために全然生きず、自分のために死んでくださった主のために生き始める。これがあるべき姿である。なぜなら回心と献身は同時に起こるからである。けれども実際にはそんなふうなことはそれほど度々あることではない。突然暗やみからまばゆいばかりの光のうちに移され、もっとも深い対照をフルに経験した人々に限る。

 その働きはさらには出エジプト記で叙述されているヘブル人の奴隷の場合と似ている。かの奴隷は六年間良い主人のもとで仕えたのち、自発的に永久に身をささげ、「私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。」(出エジプト記21・5)と言う。その結果、主人は奴隷を受け入れ、奴隷が律法から解放され愛の拘束下で終生仕えられるように保証する。これは信者がのちに経験する献身と愛の象徴のようにみえる。

私は愛しています。私は私の主を愛しています。自由の身となって去りたくはありません。
主は私の贖主です。主は私のために犠牲を払ってくださいました。
私は主にいつまでもお仕えしたいのです。ご奉仕はあまりにも楽しく、祝福あるものです。
主はもっとも元気のない時に最大の信頼すべき休息を与えてくださいます。
主はすばらしい口調のことばをもって私の願いを叶えてくださったのです。
それゆえ、私はとこしえにご自身に、ご自身だけにお仕えします。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-17-freed-from-law-bound-by-love/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97212です。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(10)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスの明るい魂をしばしば暗くする霊的な飢え渇きと暗黒の様を誰も推し量れなかった。幼い心が大いにして父なる神様との交わりをどれほど恋い焦がれていたか、何人も想像し得なかった。また両親の信仰箇条が主張するお決まりの経験によれば「クリスチャンになる」ことは不可能だと知り、絶えずその感情がどれほど抑圧されていたかも想像できなかっただろう。
 「私の全般的な考え方は」と彼女はこの求道の年月について自伝の中で書いている。「全く神様を愛していなかったこと、そしてかなりひどく、完全に悪であったということである。もし私が熱心に祈り続けようものなら、何かが私の身の上に起こり、突然私を変え、私が読んでいた多くの人や私の出会った少数の人のようになったであろう」

 ※西高東低の気圧配置、寒い中にも青空が広がった。昨日の吉祥寺の住宅街の一角である。ベック兄の学びはエペソ1・20〜23、4・1〜3で「御霊の一致」であった。そのあと89歳のS氏の誕生日記念をともに「心」で祝った。証しはN氏、10年ほど前の石川県の小松で聖餐にあずかった時のことを語られた。感動がよみがえった。その場にS氏も私たちもいた。主にある交友は時空を超えて続く。) 

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