2015年4月27日月曜日

束の間の四半世紀(3)

勢いよく花を咲かせる大手鞠(階段はモラ美術館への入口)

 1969年3月12日。交通事故にあった。1994年6月22日。継母が召された。ちょうどこの間は25年間である。その四半世紀とは果たして「束の間」だったのだろうか。たまたま今回、先週の日立行きといい、昨日のKさんとの出会いといい、二週連続して1991年の出来事を端無くも思い出す形になり、歳月の移ろいは振り返る時には短いと結論せざるを得なくなった。

 しかし、交通事故にあった時や結婚した時、当方は26、7歳であったせいもあろうが、その先に待ち構えていたのは、そのことを考えると何とも言いようのない鉛の錘りのような圧迫感を感ぜざるを得ない長い長い25年間であった思いがする。結婚生活、家族生活をめぐり、おもに私に主因がある、私たち夫婦と継母との関係をめぐる愛憎の問題であった。

 交通事故にあったのは、私たちの結婚に双方の両親が反対するという難問に直面しての結果であった。両親の反対は、まず妻の実家から出てきたものだ。妻の実家は昔の庄屋で代々宗門改めを実行していた家柄である。一家からキリスト者を出すわけにはいかないと考えていた。ところがその長女がヤソにかぶれた。だから私がヤソをやめるように説得してほしい、もしそうでなく、私までもがヤソに染まるなら、まことにもって申し訳ないから、破談にしてほしいという要請であった。

 一方、私の家はそのような旧家ではない。むしろ外観だけではあるが、近代的な住宅構造を備えた開明的な家であった。ところが、継母はやはり猛烈に反対した。この家の先祖を守るために嫁いで来た。それなのに継子がいくら好きだからといってキリスト者を嫁に迎えるのはけしからんという継母にとっては、自らの本質的な問題をカモフラージュするのにもってこいの武器となった。こうして両家の両親は不思議な形で同盟を結んだ感があった。

 ところが、結婚を望む私に対して肝心の妻の方が弱気になっており、自分は身を引くとまで言い出した。納まらぬのは、私の内にある「信教の自由」であった。錦の御旗を振りかざして何とかこの難局を乗り越えんとばかりに、一人精神は高揚していた。その翌日交通事故にあった。上から来る鞭であった。鞭は有効であった。この鞭を通し、ごう慢極まりない私は初めて主イエス様の前に砕かれ、悔い改めの祈りをする(創世記15・5)。

 しかし愛の鞭はその後も必要であった。交通事故で二三ヵ月病臥した私を心配して、継母は取るものも取りあえず北関東の地にやってきた。しかし、私はその場で即座に追い返した。継母でなく、婚約者を寄越せと言い張って(旧約聖書2サムエル13章)。今考えると何と横暴であったことだろうかと思う。継母は私に完全に裏切られたと思った。

 継母の反対はますます色濃くなって行った。結婚式の当日の朝までその反対は続いた。父までも烈火の如く怒らせる事態を引き起こしたからである。実は前日結婚式に使うエンゲージリングを京都駅で降りる際に、列車内の網棚に置き忘れて、気がついたのは、京都市内の教会でリハーサルを行なっている最中であった。慌てて電話したところ幸い大阪駅にあると言う。結局大阪まで取りに出かける羽目になり、家に戻ったのは結婚式当日の午前零時をまわったころであった。それやこれやで身支度もできず、無精髭は延ばしたまま出席した。

 喜ばしい結婚式であるはずなのに、教会でのキリスト教結婚式に賛成できないでいる両家の両親は何とも言えない苦虫を潰しているという奇妙な写真がその事実を今に伝える。あとなぜかオールバック姿で無精髭をはやしていたため、恐らくその部分だけ写真屋が修正したと思われるあとがありありと残っている二度と見ることのできぬ新郎の姿とはち切れんばかりの若さに身を包んでいる新婦の二人の出で立ちの写真である。もちろん二人にとってはそんなことはどうでもいいことであった。人生の中でこれほど手放しで嬉しいときはなかった。

 しかし、その日から苦難が始まった。継母は家内を家に寄せつけず、ある時は私までもが家を鍵締めされ、どこからも入れないという憂き目に立ち至った。どう考えても、家を捨てざるを得なかった。

 その継母が25年後には主イエス様を救い主として心に受け入れ、家内に励まされながら、天に召されて行った。まことに主のなさることは時空を越えて素晴らしい。誰にも解決不能な愛憎の関係にあった継母と私たち夫婦の間にまことの平和を下さったからである。

 それにしても、25年の月日の入口にあたる結婚と出口にあたる継母の召天の年月は、20歳の時に私が自ら蒔いた罪の結果の刈り取りをしなければならない年月ともなった。相変わらずわがままである私に、主は必要な鞭を今も与え続けていて下さる。

 このようにして大学の先輩夫妻が場所を提供して下さった交わりの場は、同行して下さったK夫妻の愛に満ちた起居動作をとおしても、三家族のそれぞれが心を開き、自由に交わり、新しい気づきを与える初めての出会いや、また50年ぶりに経験する新しい進化せる交わりとなった。

 意欲満ち 進化経営 を唱える 先輩に主 の導きあれ

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。(ガラテヤ6・7〜10)

2015年4月26日日曜日

束の間の四半世紀(2)

ロゴハウス ここは鶯 貴人の 常宿

 先週に引き続き、再び今日は常磐線の客となった。先週と違うのは、行き先が牛久であり、その上、妻が同行したことだ。四半世紀のうちで初めてのことだと言ってもいい。大学の先輩が主催される霞ヶ浦に位置する進化経営学院、およびモラ美術館を午後に一緒に訪問する計画を持っていたからである。

 ひとり旅と違って二人となって私は途端に妻まかせになった。そのため、出発駅からしてドジをしてやらかした。9時18分柏駅発に乗り損ねそうになったことだ。ホームに滑り込む列車が乗りこむべき列車とは気づかず、待合室で悠然と構えていたからだ。次に、乗ったは乗ったで、今度は降車駅牛久に気づかず、そのまま乗り過ごしそうになった。これはこれでまた慌てて飛び降りざるを得なかった。普段なら相方に責任をなすりつけてしまう私だが、今日はおとなしい。それもそのはず、今日4月26日は45回目の結婚記念日だった。私たちの結婚そのものを象徴する朝の椿事であった。あの日のことはまた稿を改めて書くことにしよう。

 日曜日であるので、まずは先週と同じように牛久での礼拝を持った。事前に今日の出席は男性は私一人だけらしいと言う情報を得ていた。一人だと大変なのは大変だが、もともとやせ我慢を張る私はそのことはそれほど気にしてはいなかった。ところが、会場に着いたら、何とK夫妻が小金井からお見えになっていた。頼もしい援軍の出現だった。結局、先週と同じく男性2名、女性5名の総勢7名の礼拝となった。もっと言うなら、地元の方3名、外人部隊の4名というこじんまりした構成であった。

 礼拝は男性二人がそれぞれ示された聖書の個所を朗読し、お祈りする。賛美曲はこれまた二人が自由にリクエストする。その曲を女性も交えて全員で賛美する。その中で主イエス様による十字架の贖いを記念して、パン裂きをする。この間4、50分である。終って5分ほど休憩して福音集会を持つ。司会はKさんにお頼みする。Kさんは最近タイ・サムイ島でのご子息の結婚式の様子をお話し下さった。英語、中国語、日本語の飛び交う中ですべて主イエス様の完全な導きをいただいたという喜びの証だった。

 お聞きするうちに、私の聖書メッセージは今日はやめにしてそのまま話し続けていただきたい思いに駆られそうになった。しかし、踏みとどまることができた。折角、そのために牛久まで来ているし、信仰は聖書のみことばに裏打ちされなければ好い加減になり、動揺極まりないものになることを日頃自分で経験しているからだ。でもKさんのお話は私たちの心を十分和ませて、新しく結婚なさったご子息夫妻のために祈ろうという思いを出席者全員に与えたにちがいない。

 福音集会のメッセージの題は『神の知恵か、人の知恵か』で、1コリント1・25を引用聖句とさせていただいた。

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

  神様は賢く、強いお方だが、人間の愚かさ、弱さに照準を合わせられた。そんな神様の愛が人には愚かにも弱さにも見える、それが十字架のイエス様の愛である。そんなことを語らせていただいているうちに、遠い昔、Kさんと軽井沢で二泊三日、同じ部屋で寝泊まりしたことを端無くも思い出していた。

 Kさんとお会いしたのは24年前のその時が初めてであったように記憶する。Kさんは隣の蒲団の中で苦吟されていた。それは何とかイエス様を信じたいが、それが自らの知恵ではできない、その焦りだったように思う。その何年か前、私自身がそうであったから、人一倍そのことがわかった。そして人の知恵で見つけられぬ神様をイエス様をとおして得られる御霊の導きによって今は二人とも知るようになった幸いを語り、話を閉じた。

 あれから24年目、こうして二人で少ない集まりも何のものかわ、互いにキリストのからだである「教会」を覚えて、少年のごとく妻とともに喜んで連なっていることも何と不思議なことだろう。(また、報告の場では、少ない地元の方のお一人がこの前大洗で洗礼を受けられたことを話された。これまた何たる感謝なことであろうか。)時空、人を超えた大変な主の御導きであると言わざるを得ない。考えてみると、K夫妻とはそんなに会うわけではない。特にご主人と席を同じくして話を交わすのは近年においてはそれほどなかったように記憶する。
 
 その上、なぜか二三日前、今回ご訪問する先輩との関係で明らかになった彦根の様子をさらに詳しく知りたいため、今はアメリカにいるがお母さんが彦根にいるK夫妻のお婿さんにメールしていた。そのお婿さんからのお返事の中で、義弟の結婚式に出席した様子が書かれていた。まさか日ならずして、こうしてご両親からじかにその話をお聞きできるとは、これまた何という主のご配慮であろうか。

 しかし話はそれで終わりではなかった。
 
  その後、その会場をあとにし、いよいよ私たち夫婦は楽しみにしていた霞ヶ浦行きを決行しようとしていた。交通手段は電車を利用し、先輩が高浜駅に迎えに来てくださることになっていた。ためしに地元の方であるからもしやご存知ないかと思い、すでにいただいていたご本等を参考に説明していた。その話をKさんご夫妻も傍で聞いておられた。ところが、ご主人がその本を手にするやいなや大変な興味・関心を示された。そして一緒に行ってもいい、いや行きましょう、と話は忽ちのうちに一挙にまとまったのだ。こうしてKさんご夫妻の車に乗せていただいてのご訪問となった。そこには想像を超えた交わりが待っていた。

2015年4月24日金曜日

束の間の四半世紀(1)


眼下に太平洋を望見できるお庭

 日曜日、日立の方々と一緒に主を礼拝した。男性二人、女性五名の総勢七名であった。鈍行列車で出かけることにしているので、いつも家を出るのは早い。ところが、今回は初めてとも言っていい経験をした。それは途中の乗り換え駅である柏駅がホーム上で各車両の入口に人々がたむろしていて、おかげで車内はずっと立ちっ放しであったことによる。いったい何があるのだろうと注意して眺めていたら、皆さんリュックを背負うなり、トレーニングシャツを着るなりし、一様に日焼けをし、健康そうな人ばかりだった。その内に、皆さんがてんでに「かすみがうらマラソン」のチラシを持っていることに気づく。土浦駅で人々は一斉に降りられ、やっと席に座れた。

 こんなことは初めてであった。日立行きは判で捺したようにその日程は決まっている。ただ前回大学の同窓会に出席するために当番を後退してもらったため、今回この恒例の行事とたまたまぶつかったのかもしれない。人々の喧噪からも解放され、いつものようにゆったり窓外にひろがる景色を楽しむ。いくつ駅があるかもしれないが、日立までは結構遠いのだ。ただこの日は、生憎曇り空のために筑波山も見えない。でも春の緑を見るのは心地よい。

 常陸多賀駅に着き、タクシーで向かう。いつもの方々が集っておられた。お話する中で、こうして何年通ってきているのかと、問わず語りに語ってしまっていた。朝の初体験から私の内でその思いがしきりと繰り返されていたためである。ところが、予期しない答えが帰って来た。「もう24年になりますよ」一瞬我が耳を疑った。「そうなんだ、24年なのだ」という思いがした。24年と言う年月はあっと言う間である。この間、何をしたわけでもない。こうして愚直にみことばを通してお互いが主を喜び合えていることが恵みなのだと感謝した。

 この家の主(あるじ)の方がおっしゃった。「集会に、仕事を持ちながら、日曜日になると遠くからみことばを携えて来て下さる。そのことに感謝していた。最近その自分も遠くへみことばを携えて出かけるようになった。決してたくさんの人が集まるわけではない。人数は少ないと言ってもいい。けれども、そこでお交わりをすると主にある恵みを聞かされる。多くの人の率直な証をお聞きするたびに恵まれます。主イエス様はすごいとしか言いようがありません」と。 工学部の応用化学か何かを専攻され、縁あってこの地で職を得、居を定められた方である。

 その始まりは私も昨日のごとく覚えている。集会があることを伝え聞き、一人の卒業生が近くに住んでいるので、誘った。聖書を持ってやって来た。嬉しかった。その彼女も様々な人生経験をする中で、先の震災を機に故郷の実家に帰って行ってしまった。以来、彼女の家を訪ねることもままならなくなった。時折、こちらから電話をかけたり、彼女がくれたりするが、最近ではその交流も途絶えている。ほぼその四半世紀前にベック兄が行かれて持たれた家庭集会の日時は平成3年の3月だと、やはりその場に出席している方があとで教えて下さった。

 でも話はそれで終わりではなかった。実は先週一人の方が静岡県の藤枝で召された。その方は新幹線を使ってこの地まで、みことばを求めて来られていたのだという。そしてその方が悶々とした「律法」のしがらみのある宗教生活から、真の自由を得られた。「私たちもまたそうだったんです。だから彼女は私たちにとって戦友だったんです」と、懐かしそうにこれまたご婦人たちが語られていた。四半世紀遅々たる歩みではあるが、日立まで通われた方の藤枝のお宅でも後に家庭集会・礼拝が持たれるように導かれた。こうして変らず主を賛美し、私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ、それだけでなく三日後によみがえられた主イエス様を信ずることにより、新しいいのちを得ている幸いを感謝する。もちろん、私たちの至らなさのために、まだこの場に集い得ていない多くのまわりにいる家族友人の救いを祈るや切である。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7・24)

信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。(ガラテヤ3・23〜24)

2015年4月22日水曜日

契約のしるし

  虹は「退去してゆく夜雲の上にかがやき出る太陽の多彩な光」である。(J.P.ランゲ)。天の架橋とでも言ったように、虹は上界と下界とを結び、七色にかがやきつつ(生命の色であるエメラルドの緑色をそのなかに含む。黙示録4・3)創造主と被造物との間の契約を証している(三は神の数であり、四は世界の数である。七は両方の合計であり、結合である)。

 「まだ少し前までは閃光を発しながら放電していた暗い地面の上に、虹はかがやき出でて、以って神の愛が暗い烈しい怒りに勝つことを明らかにする。黒雲に対する太陽の作用から生じた虹は、天的なものが地的なものを浸透する意志をもっていることを明らかにする。天と地との間に張られた虹は、神と人との間の平和を告げる。視野全体を蔽いつつ、虹は恩恵の契約がすべてを包括することを立証する。」

 こうして虹は、総じて救世と贖罪との型となった。そしてそのような型として虹は、救世の指揮者とし完成者としての主の王座に現われる(エゼキエル書1・28、黙示録4・3)そしてわれわれがこの地において雲のなかに虹をいつも円しか見ないようにーこれは同時に贖罪のわれわれの現在の経験が完全であることの型でもあるが(コリント前書13・9〜12、ヨハネ第一書3・2)ーいつかはわれわれは完全な円が「王座をとり巻き」、そして完全にかがやきながら、契約の神の忠信をほめたたえるのを、見るであろう。こうして虹は、われわれの永遠の救いの自然象徴となるであろう。

 このように、すべて虹と関連するものは、類型的である。

 出現の時ーそれは太陽の再出現と同時に現われる(エゼキエル書1・28
 現われ方ー闇が光によって変容されるようにかがやく(創世記9・14
 七色ー七は契約の数である(例えばレビ記16・14、その他
 緑色の優勢ー緑色は生命の色である(黙示録4・3
 弓形(あるいは橋形)ー創造主と被造物との結びつきを示す
                      (創世記9・12〜17
 視野のひろさー恩恵の契約の総合的・包括的性格を示す
              (創世記9・12、15。「すべての肉」
 永遠の天の円ー神の完全さの一類型となる
               (エゼキエル書1・28、黙示録4・3

(『世界の救いの黎明』エーリヒ・ザウアー著 聖書図書刊行会114頁より引用。この本の翻訳は小林儀八郎氏と親交のあった長谷川周治氏の令息長谷川真氏によるものである。一週間前(4月15日)の家庭集会後、皆さんがほぼお帰りになった直後にわかに雨が激しく降った、その一瞬ののち写真の虹が現われた。大急ぎで二階の窓から撮影。)

わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。(創世記9・13〜16)

2015年4月17日金曜日

二年浪人の日々


わが故郷高宮宿(中山道界隈)

 振り返って見ると高校三年の時から結婚するまでがちょうど10年という年数である。その高三の夏である。母はすでに病魔に冒されていて立ち上がれなかった。弟を枕辺に招き、理学部進学を主張してやまない頑固な私を座らせ、二人で説得しにかかった。叔父は自らが卒業した彦根の大学への進学を勧めた。叔父は私に対して「衣食足りて礼節を知る」と言うではないか。理学部にこだわる必要はない、と言う考えであった。それに対して私は「人はパンだけで生くるにあらず。」と突っ張ねた。その様子はオープンリールのテープレコーダーで録音しており、継母が召されるまで大事に保管していたが、その時何かのはずみで処分してしまった。そのテープには母の肉声が病臥していた座敷の畳を這いずりまわるが如き低い音声で録音されていたはずである。

 小学校の時付属中学への進学を画策したほどの教育ママであった母であったが、現実を深く認識していた。私の進学希望に対して、何とか自分が生きている間に大学進学を果たせてやりたいと思い、よりランクの低い可能性のある大学への進学を助言した。その助言も無視した。案の定受験は失敗した。母はその年の5月に亡くなった。父との二人の生活が始まった。食事つくりは私の分担となった。ところが父が結核になった。私は病気が移っては困るとばかり、薄情にもその時初めて京都での予備校暮らしを考えた。夏8月京都での下宿生活が始まった。三人のいとこはそれぞれ私の目ざす大学の大学生で、同じ京都で闊達な学生生活を楽しんでいた。

 しかし、ここでも私のわがままは現われ、結局予備校へは一月ほど行っただけで、いつの間にか行かなくなり大徳寺の下宿で「勉強」していた。来春には念願の大学に入れると、さしたる努力もせず、夢だけが膨らんでいた。高校の担任は一年浪人したら入れると言っていた。そのことばを盾に取っていた感がある。のちに自ら教師になってみてわかったことだが、教師は生徒を励ますためにそういうことを平気で言うのだ。ところが自惚れの私はそのことがわからなかった。案の定、再び受験に失敗した。さすがにこの時は頭が真っ白になった。どうしていいかわからなくなり、伯父の前で大泣きに泣いた。

 伯父はその私の悲しみを見るに見かねて、彦根の大学の夜間への受験がまだできる。そこを受けてみろと進言して下さった。すぐそうした。そしてその彦根の大学への通学が始まった。昼間の学生と顔を合わせることもあり、かつての高校の同級生と会うとみじめになった。昼間はバイトをすることにした。中学校の親友がバイト先を紹介してくれた。金物屋の帳簿付けであった。仕事は家の人の足手惑いになることもあったが、お金をいただく喜びを味わった。この頃は創価学会の折伏活動が激しくその餌食になりそうだったが、合理性を重んずる私の性質上そうはならなかった。

 一方、彦根の大学は夜間とは言え、昼間の大学の教授たちがそのまま講義をする。何ら遜色はなかった。新聞部に入り、その当時上程された大学管理法案を批判する論説を書いたりした。その論説が目にとまったのか、「民青」への加入を何度か勧められたが、私は共産党の杓子定規的な行き方が合点できず、彼らの主張は共鳴できるが断った。その内、昼間の仕事、またこのまま経済学部への進学をするとなると、一生こんな無味乾燥な生活を続けるのかと前途を考えると悲観的になった。

 10月になった。私は意を決して再び理学部受験を考えるようになった。そして今回は理学部以外にも農学部や工業教員養成所も視野に入れた。そして残るは二期の大学である彦根の大学を父の希望もあって受験することにした。今回は背水の陣を敷き、それまでの勉強と打って変わって受験勉強に勤しんだ。それと相前後して、私は父のお嫁さん探しに懸命であった。その話は何度か暗礁に乗り上げながら、4月の神社での神前結婚式と具体化して行ったのである。

 振り返れば、高校三年の卒業の年に母が亡くなり、それゆえに受けた様々な試練であったが、その大半は私自身のわがまま勝手な性格が色濃く支配しているように思う。しかし本当に私自身の真価が問われたのはこの後始まる継母との生活、彦根での大学生活であったことを知る。この4年間ほど私にとって最も大切な時期はなかった。主なる神様は、この自己中心で傲慢な者を愛の腕でじっとご自分のところに帰って来ることを待って下さっていたのだ。

 現に私が叔父に言った言葉は象徴的でさえある。私が言った言葉は聖書のことばであったが、私はそのことは知らなかった。しかも肝心の後半の言葉は脱落していた。全文は次の言葉である。

人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる(マタイ4・4)

 前半のことばはともかく、後半のことばは無神論者の私には納得できないことばであったであろう。しかし、10年と言う年月を通して私はこのイエス様のことばを全面的に受け入れる者と変えられた。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14・12)

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3・6)

2015年4月16日木曜日

二年浪人後の大学生活(下)


大手門橋から遠望する彦根の大学 2010.2.24

 このような大学生活であったが、部活動を選ぶ時、一時テニス部に仮入部したが、駄目だった。その時、小中高と一年下のK君が「グリークラブに一緒に入りませんか」と勧めてくれ、二人して入部した。彼はテナーで私はセカンド・テナーに割り振られた。練習は確かこの大学の講堂を利用したように記憶する。

 部活内では随分濃密な人間関係を与えられたように思う。そして二学年に進学した時に、家庭教師をしていた中学生の姉も短大に進学して音楽部に所属した。そのために私たちのグリークラブと短大音楽部の交流があり、多くの団員の中に混じって彼女とも一緒にステージに立つこともあったように覚えている。その指揮者が(上)でご紹介したK氏であった。そのレパートリーには多くの宗教音楽があった。

 ところで、彼女は音楽だけでなく、絵も好きで大胆に「赤い城」の絵を展覧会に出したりしていたので、もともと絵の好きな私は徐々に彼女に興味を持ち始めていた。ところが後に結婚してから初めて知ったことだが、当時彼女は私の同級生の某君に夢中だったのだ。しかしその愛はなぜか実らなかった。彼女はすべてに絶望し、短大を卒業し、私が大学4年生の時には、家を出て県内の遠くの養護施設の寮母として住み込みで働き始めた。その職場で今は天に召されている平野幸子さんと出会った。この方は短大の先輩であったが、先に失恋を経験し、今また寮母として恵まれない環境に置かれた子どもに愛をもって接しようとしても、到底できそうにない自分に悩んでいた彼女に、救い主イエス様を伝えられた。彼女は初めて主イエス様が十字架上に自分の罪の身代わりに死なれたことを知り、主イエス様に対する信仰を持ち、前向きに人生を生きるように変えられた。

 それは私が大学を卒業し、北関東足利の新天地で生きようとしていた時と重なった。このころには私は継母との関係が自動的に断ち切られ、なぜか自らの結婚を考えようと一生懸命であった。その時、頭にあったのが故郷にいる彼女であった。こうして私たちの親しい交流、それも手紙を通してのおびただしい文通が三年に及ぶようになった。私はその大半を大学4年で身につけた思想で自らを武装し、彼女の信仰を批判していたが、ついに自ら隠し持っていた罪の告白を認めずにはいられなかった。

 ところが彼女は私の罪を攻めるどころか、逆に「私の罪も、あなたと同様に自己中心の汚れに満ちた罪でありました。どうぞ、イエス様にあなたの罪の重荷を下ろして、気を楽にして下さい。イエス様は、とっくのうちに、あなたの罪を赦して下さっていますよ。」とそれこそ福音そのものの手紙を私に寄越してくれた。今でもその手紙を読むと自然と涙が出て来る。それは主イエス様の愛が十字架刑の贖いを通して溢れ出てくる思いがするからである。

 二年浪人後の合格大学は彦根の大学だけでなく、京都の大学にも受かっていた。本命の大学ではなかったが、そちらに進学すれば理学部への転部の道は辛うじて残っていた。本命の大学であったら、喜び勇んで、京都に行ったであろう。しかし結果はそうでなかった。だから、思案した挙げ句、継母との生活も考えて結局地元の大学に決めた。その結果は思いもしない自らの情欲のとりこになった生活の始まりであり、一方では先輩がかつての高校の後輩であると言う当時の私にとり、これ以上屈辱的な生活はないと言う4年間を味わわされた。

 だから私にとってこれまで大学生活は思い出したくない自分の人生の通過点であり、同窓会も進んで出る気になれなかったのである。しかし、今回家人に勧められて端無くも同窓会出席を決断し、5分間のスピーチを考えるうちに徐々に考えは変ってきた。

 もし、私が人様より二年遅れて彦根の大学へ入らなかったら、義弟の家庭教師をすることもなく、私と今の妻との出会いは当然なく、まして、妻が主イエス様を知るようになったもともとの原因である私の同級生である某氏との出会いもなかったわけである。K氏は謙虚に自らの大学生活を振り返り『大学留年』の事実を公表し、その上で「彦根は私の生命の灯をともしてくれたところです」と結んでおられた。

 私はこのK氏を指揮者とするグリークラブをこれまた友人のT君と語らい、わずか一年数ヶ月足らずで退部した。それは「グリーには思想性がない 」という生意気にも、一方的な独断によるものであった。しかし、今回その同窓会で『山に祈る』(清水脩作詞作曲)の話が出てグリークラブのメンバーが出て歌うことになった。私は脱落者であるにもかかわらずノコノコと壇上に出て口パクでありながら仲間に加えてもらった。一挙に空白であった大学生活が私によみがえってきたからである。

 私はその後、主イエス様を信ずる仲間たちと集まるごとに主を賛美する歌を歌っている。これは大学卒業以来変らない。考えて見ればこれもまたK氏を始めとしてグリークラブの仲間が音痴である私に下さった大学生活の大きな賜物の一つであると言えるのでないか。それにくらべて自らの傲慢さはいつまで経っても治らない。今度こそ、K氏の言い分を真似してであるが、私も言いたい。

 彦根は私の「いのち」の灯をともしてくれたところです。

 もし、この大学の存在がなければ、私はイエス・キリストに出会わずして、永遠のいのちを知ることもなかったであろう、と思うからである。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1・9)

イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。(創世記24・67)

2015年4月15日水曜日

二年浪人後の大学生活(中)

彦根城表門橋にさしかかる内堀(※)

 大学入学は昭和38年(1963年)になった。遅れてやってきた春は微笑みをもたらしはしなかった。入学早々、私は多くの同級生たちが張り切って大学生活を謳歌し始めているのを横目に見ながら、なぜか心は晴れなかった。

 それは、ほぼ同じ時期に、私の家庭に父の後妻として嫁いできた継母との間でいかにその人間関係を構築するかに日々時間を奪われ、内なる情念の思いを抑えることが出来なかったからである。大学にも行かず、トンネルの中に入ったような日々が続いた。自らの内側にある「罪と汚れ」の虜になった。自らそうであってはならないと知りつつ、自分の力ではいかんとも出来かねず罪の赴くまま流されて行った。

 このような時、私は伯父の紹介により一人の中学生の家庭教師を依頼された。罪と咎の汚濁の臭いさえする私の家庭にその純真な中学生が通って来ることは一服の清涼剤のような思いさえした。しかも、後年、彼の姉を通して福音に触れ、その姉と結婚までするとはその当時はもちろん考えもしなかった。

 一方与えられた「経済学」という学問は、高校時代、私が価値を認めようとしなかった学問のうちの一つであり、私は、本来目ざそうとしていた「物理学」への執着が断ち切れず何とか文系の大学だが、理学部への転入できないかと考える始末であった。そのような中で唯一と言ってもいい授業に出会った。それは永岡薫さんの「社会思想史」という授業であった。ダンテの神曲が紹介され、資本主義発生史にまつわるウェーバーの論考、大塚久雄氏の論考などが次々と紹介された。その方は長身ではあったが決して健康そうには思えなかった。しかし、その内面からほとばしりでる清さのようなものは、罪・咎の真っ只中にいる私を圧倒し、同時に経済学に対する関心を初めて抱かしめた。

 ところが、ある時、大学の図書館でフォイエルバッハの『キリスト教の本質』という本を手にした。それは永岡さんが言わんとしていた福音思想をひっくり返す論考であった。人間性の謳歌そのものを巧みに描いた作品であった。次に、経済学の成立はそもそもいかにして可能かを考えていたときに手にしたマルクスの『経済学・哲学草稿』の中に私は次の言葉を見つけた。

「経済学は欲望の体系である。」

 私にとって、このことばはフォイエルバッハの本と同様に自らの脳天を打ち砕くのに十分であった。そうだ。欲望だ。「欲望」は否定の対象でなく、「肯定」の対象である。何をおまえはくよくよ悩んでいるのだ、おまえはむしろこの欲望の体系を妨げている社会悪そのものに目を向けて戦うのがおまえの生き方ではないのかという声が聞こえてきた。私はこうして一方では様々なキリスト教思想・文学に引きつけられながらも、他方では経済学という学問の存在根拠を確証するためにウエーバーとマルクスの思想を二つながら考えるという迂遠な道を歩み始めた。

 その後、生協運動の中で学生運動の前面に踊り出さねばならない羽目に陥った時は、敵前逃亡よろしく病気になり、体(てい)よくその現場から離れ、様々な思想家(森有正、吉本隆明)の本に沈潜し、自分の内側にある罪を再び内向せしめるように今度は思想武装さえするようになっていった。

私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ(詩篇32・3〜4)

(※このお堀は風が吹いてもさほど波が立たないように工夫されている。それは水中を潜り城に近づこうとする敵をいち早く発見するために必要な造作であった。藤堂高虎の設計で、江戸城にも同じ特徴があると言う。高校時代、文化講演会で中村直勝氏が「このお堀がなぜ波立たないのかわかるか、天下の東高生が毎日お堀の前を通っていながら、わからぬのか」と講壇から挑戦的に言われて知ったことである。直勝さんは同じ滋賀県下の膳所高校の出身の著名な日本史学者であった。)

2015年4月14日火曜日

二年浪人後の大学生活(上)

彦根城下京橋にさしかかるお堀(下片原町から見やる)

 先頃大学の同窓会に出席させていただいて端無くも自分の今日あるのはこの大学生活あってのことだと思わされた。長らく、自らの大学生活を振り返ろうとはせず、逆に高校生活を事あるごとに思い出していた。高校時代は当時ジェローム・K・ジェロームの「ボートの三人男」を英語の時間に読まされたが、まさしくそのままの生き方のように思っていた自分がいる。可能性が満ちていた青春の一時期であった高校時代を自分なりに美化していたからだろう。

 それにくらべると、その高校時代の夢が破れた結果の大学生活であった。高校時代の一方的な明るさに満ちていた思い出に比べ、灰色のイメージが強く、いつもあの梅雨時分の雨がしとしと降り、しかし木々の緑はますます色濃くして行く様子は、自分の脳裏をかすめるが、思い出したくもない大学生活というとらえ方をしていた。

 だから、同窓会の日程を知らされても、その日が別の用事が既に入っていて、絶対出席は無理だと頭から決めてかかっていた。ところがである。幹事から直接電話がかかってきて卒業以来会っていない、是非参加してほしいとの要請があった。いつもはこんな時、決して賛成しない家人が、なぜか、折角の機会だからこの際出席した方が良いと勧める。とうとう出席の返事を出した。折り返し、ついては5分間のスピーチをお願いしますという丁寧な依頼を添えた案内のはがきが届いた。

 当初5分間で大学卒業後の来し方をまとめあげるのは至難の業だと思った。ところが準備している間に、私の大学に対する負のイメージに反して、現在あるのはこの大学生活があっての今だと、徐々に納得させられるように変えられていった。第一、私は簿記知識、商業知識はゼロであったが、この大学の前身が高等商業学校であったため、そのような無能力な私に大学は「商業科教員」の免許を難なく与えてくれた。わずか紙切れ一枚の免許状は効力を発揮し、本来なら社会生活ができず、路頭に迷ったであろう私が商業高校の教員になったからである。

 このことだけでもこの大学に感謝しても、し過ぎることはない。のちに社会科の教員に鞍替えするため、他大学の通信教育で社会科教員免許状を取るのに大変苦労させられた。それもこの大学の人文地理を生意気にも落としたからである。非はこちら側にあり、大学側にはないのだから、負のイメージそのものが大変な自らの思い違いであることをこの際思い知らされた。でもこのことも何となく格好よく言ったが、実はこの非をはっきり自覚させられたのは同窓会でK氏に会い、その上、家に帰ってからK氏の書いた文章を読んでからである。

 自らがいかに傲慢であるかを改めて知る。

 そのK氏の文章を拝借させてもらう。『我が青春の彦根』(http://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/bitstream/10441/13433/1/%E3%82%8F%E3%81%8C%E9%9D%92%E6%98%A5%E3%81%AE%E5%BD%A6%E6%A0%B9%20.pdf)という文集に掲載されている、『大学留年』と題して記載されている文章の以下の冒頭部分である。

 大学に入学したのが昭和37年、卒業が昭和42年、在学5年、1年留年しました。留年の大きな理由は人文地理で落ちたのですが、私が生意気な生徒だったことが遠因でした。二年から三年への進級が遅れました。その結果生意気だった私の鼻が少しは折れて、留年したおかげで、その分いろいろな経過を積むことができました。

 さりげなく書かれている文章だが、この筆者もまた人文地理を落としたのである。しかも留年という高い犠牲を払わされた。私が欲しい社会科教員免許状をそのために与えられなかったのとは事情が違う。このK氏は払わされた代価にもかかわらず次のように結ぶ。

 こうして振り返ると彦根で5年の大学生活をしたことが私の人生を豊かにしてくれました。彦根は私の生命の灯を灯してくれたところです。

 私もこのK氏にならって『二年浪人後の大学生活』とでも題して、少し書かせていただこうかしら・・・

イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13・7)

2015年4月10日金曜日

私の責任

    家出少年のことをこの前書いたが、果たして、自分の取った態度はあれで良かったのか悔恨の思いが出て来た。少年とは言え、そこには主なる神様から迷い出た人の姿があったからである。「なぜ家出したの」と聞くと、その少年はお母さんが仕事が忙しくって、自分の面倒を見てくれない寂しさを言葉であらわしていたからだ。

    少年が寂しさを抱えて、「家出」したこと、たとえ、その地が数メートルの離れた土地であったとしても、もはや雨露をしのげない荒野とも言っていい土地に出立していたからだ。その日は晴れ間も見えて、その場所は陽だまりの格好の場所であったとは言え・・・。

    もし、その場にイエス様がおられたら、私のように少年の歩むままに、放置し、そのまま、その場を立ち去られたであろうかと思ったからである。スカルの井戸でイエス様は女に水を所望された。その働きかけは、女の孤独を癒すきっかけとなった。少年の心に宿る罪の思いはこれから成長するにつけて加速度的に増していくのではなかろうか。たとえ、家庭に不満があろうとも、家を出るのでなく、そこで孤独を慰めてくださる主イエス様を体験できたのなら、少年は違った思いを抱いて家に帰れたのでないかと思ったからである。

    もし、私の内に一片でも少年を愛する思いがあったら、自らの過去を振り返り、懐かしむのでなく、少年の懐に飛び込んで抱きかかえることができたであろう。

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(ルカ15・17〜20)

2015年4月8日水曜日

家出少年

    今日は肌寒い一日になりそうだった。関東では積りはしないが雪が降っていると今朝電話の向こうから家人が告げてきた。関西とは言え、この地方は気流が鈴鹿山系、また南北に走る福井にかけて山脈が走るため一部日本海の影響を受ける独特の地勢下にある。芭蕉が「をりをりに伊吹を見てや冬籠」と詠んだ地だ。ところが今日は関東に比べ、日本海側は晴れると天気予報が告げているとも家人は言っていた。

    確かに、午後窓の外を見やると、雲の合間に青空が広がっているのが見えた。喜び勇んで戸外に出た。一人の少年が隣地の石段の上に何やら置いて描き込んでいる姿が目に入ってきた。突然ガラガラっと戸を開けたので、さぞかしびっくりさせたであろうと思いきや、落ち着いたもので、黙礼さえするかの仕草を見せた。こちらはこの地の主とは言え、多年他郷にいる身だ。少年とは言え、見慣れぬ人が不意に留守宅と思われる家から出てきたのを不審に思っても当然の当方の出方であった。

    当てもなく散歩に出かけようと思っていたので、少年の方に歩み寄った。絵を描いているように見えた少年は実は国語の教科書をノートに写しているのだった。「何してるの?」と聞くと少年は「家出してきた」と答えた。少年のたたずんでいる場所は、私の少年時代にはとても入れない場所だった。隣家は家の親戚ではあるが、大変な大地主で、蔵が幾つも軒並みを並べていて、中学の頃二階の窓からたくさんある蔵を眺めるのが精一杯であった。

    その場所は今や時代が変わり、その大地主の一族はとっくの昔に土地を市に寄贈し、東京に移り住んでしまった。今はその跡地にたくさんの住宅が立ち並ぶように変わったが、昔小作人の方々が米を運んだであろう倉庫口の石段は今もかすかに残っている。もはやその少年が知る由もない石段であろう。そこで飛び出てきたことばが先ほどの「家出」という言葉であった。

    「どこから家出して来たの?」と聞くと、「あっち」と石段の隣地とは反対の方角を指す。そちらの方は私の記憶だと「Oさん」しかない。「Oさん?」と訊くと、そうだと言う。途端に少年が可愛くなってきた。わが少年時代を思い出す。おかずが気に入らないと言うと、母はその気に入らないおかずを毎食ごとに出す。互いの根競べであった。さぞかし、その程度の争いであろう。親の言うことはよく聞くんだよと言うべきだったが、何も言わず立ち去った。

    ややあって散歩の帰り道、その「Oさん」の家の前を通った。二人のご婦人が立ち話をしておられた。見るともなく見ていると、一人の方は当然その家の方に違いない。どこか少年と体型や顔立ちが似ていた。家に帰って来たら先ほどの少年はもうその場にはいなかった。家出を止めて家に帰ったのでないか。少年は小学校3年生だと言っていた。名前は何と言うのと聞くと、教えてくれた。「いくみ」と言うらしい。「いく」は体育の「育」だと言ったが、「み」はわからないと言っていた。明日から学校だとも言っていた。

    少年が健やかに成長できますように。

それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。(ルカ2・51〜52)