2015年4月10日金曜日

私の責任

    家出少年のことをこの前書いたが、果たして、自分の取った態度はあれで良かったのか悔恨の思いが出て来た。少年とは言え、そこには主なる神様から迷い出た人の姿があったからである。「なぜ家出したの」と聞くと、その少年はお母さんが仕事が忙しくって、自分の面倒を見てくれない寂しさを言葉であらわしていたからだ。

    少年が寂しさを抱えて、「家出」したこと、たとえ、その地が数メートルの離れた土地であったとしても、もはや雨露をしのげない荒野とも言っていい土地に出立していたからだ。その日は晴れ間も見えて、その場所は陽だまりの格好の場所であったとは言え・・・。

    もし、その場にイエス様がおられたら、私のように少年の歩むままに、放置し、そのまま、その場を立ち去られたであろうかと思ったからである。スカルの井戸でイエス様は女に水を所望された。その働きかけは、女の孤独を癒すきっかけとなった。少年の心に宿る罪の思いはこれから成長するにつけて加速度的に増していくのではなかろうか。たとえ、家庭に不満があろうとも、家を出るのでなく、そこで孤独を慰めてくださる主イエス様を体験できたのなら、少年は違った思いを抱いて家に帰れたのでないかと思ったからである。

    もし、私の内に一片でも少年を愛する思いがあったら、自らの過去を振り返り、懐かしむのでなく、少年の懐に飛び込んで抱きかかえることができたであろう。

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(ルカ15・17〜20)

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