2022年9月30日金曜日

わな(3)

彼らはイエスのところに来て、言った。「先生、私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。(マルコ12・14)

 パリサイ人は税を納めたくない民衆の味方であり、ヘロデ党の人は税を取る官憲の味方である。この者どもが合同してイエスを陥れんとしつつあるのである。

 特に『あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています』などとお世辞を言って平素から率直で忌憚なく所信を言明するイエスをさらにおだてて、無雑作に直言させ、もって民衆の不満かカイザルの怒りかを買わしめようとしたのは実に巧妙なやり方であると言わねばなるまい。実に世の人はこの世のことに巧みである。これらを奸智(かんち)と言うのであろう。

 しかし、イエスの知恵は彼らの知恵に勝っていた。クリスチャンは正直でありさえすればよいのではない。主の仰せ給うた如く『蛇のようにさとく』なければならない。如何なるこの世の奸智をも見透すだけの知恵を研くべきである。ただに見透すだけでなく、さらに本質的な大智をもってこれらの小智を打破するだけの用意が欲しい。

祈祷
知恵と力のもとなる天の父よ。願わくは私たちにも天よりの知恵を与え給え。聖霊による大智を私たちに与えてこの世の小智に打ち勝つ事ができるようにさせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著273頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 273https://www.youtube.com/watch?v=MjuLNPJNbXQ 

クレッツマン『聖書の黙想』189頁より

 彼らはこんな胸算用をしていたのである。ーーもし、イエスが一方の答え方をすると、ユダヤ人が大いに怒るだろう。が、しかし、また、別の答え方をしたら、今度はヘロデ党の者がイエスを国の敵として、その支配者に告げるはずである、と。

 その問題とはこうであった。

 「カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。

 彼らは、はっきりと、一つの答えを要求した。

David Smithの『Days of His Flesh』〈原文403頁、邦訳779頁〉第42章 有司との対戦8 税金についての質問  

 代表者は格好の機会を窺い、慇懃な態度を装い、巧言令色をほしいままにして、イエスの判断を乞うべき質問を提出して、『先生、私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。』と言った。これは実に巧妙なわなであった。ユダヤ人はローマの羈絆の下に苦しみ悶え、征服者に対して税を納めさせられるのは、彼らの誇りとした精神の大いなる痛みであった。これ実に当時激烈な議論の戦わされた問題であって、この質問者は外観すこぶる真摯な口調をもって尋ねたのであった。パリサイ人は愛国的党派で、このパリサイの弟子らは青年の血気にまかせて、国民の名誉を護る高尚な苦心をもって行動したことは当然であったが、サドカイ人は世俗的その時主義であったけれども、なお国家の王権を蹂躙されるのを妬み、外国人の専制に服するのを恨んでいた。

9 油断ならざる相関論法

 これ至当な質問と見えたけれども、その実は狡猾なわなであった。イエスは必ずこれを納めることに反対されるのは明らかであって、このようにしてかつて謀反の企てを捨てなかったユダヤ人の騒擾に煩わされ、無情となったローマ人の残忍な復讐心に身を晒すようなものである。イエスはガリラヤ出身ではないか。而してガリラヤは真に暴徒の震源地であった。しかもイエスの親密な党与のうちにゼロテの自暴自棄する徒党が加わっているではないか。

 さらに、またイエスが税を納めることを当然であると主張されたと想像せよ、即刻人民の同情を失い、この防衛の城郭は撤去されて、有司たちの手に陥られるに違いない。群衆はイエスをメシヤと認め、王位に上って、ローマの暴政の下より救出されるべきを信じるが故にホサナと讃えてこれに従ったのであった。帝国の課税に屈従すべきを許されんか、彼らの目にはこれメシヤの権を放擲されたのと同様であって、時を移さず彼らはイエスを捨て去るに相違はなかった。)

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