2022年9月12日月曜日

祈って信じ、信じて祈る

だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。(マルコ11・24)

 信仰は必ず祈りに伴う。さればイエスは前節に信仰を高調した後、直ちに祈りのことに及んでいる。祈って信じ、信じて祈る。これが信者の生活でなければならない。祈りの伴わぬ信仰は信条に堕してしまう。

 信仰の生活は祈りの生活である。祈りの中心は神との霊交である。神との霊交が現実の生活を支配するに至るのは、この『すでに受けたと信ずる』心が大切である。先ず何よりも、すでに神を得たりと信ずるのである。

 心に神を得なくては祈りというものほど愚かなものはない。心眼を開いてあなたの前に立ち給う神を見つめよ、而して神を心の中に請じ入れよ、これが祈りの骨子である。斯くして先ず神を得るのである。然して後『求めるもの』を得るのである。

祈祷
神様、願わくは、何よりも先ずあなた自身を私にお与え下さい。あなた自身を『すでに受けた』と信ずる心をお与え下さい。一切の不信、一切の疑いを雲のように払い、太陽のように輝く御姿を先ず私の心に獲得させて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著255頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌295 https://www.youtube.com/watch?v=l9ziYupRj3k 

ベック兄「絶えず祈れ」上巻〈54頁〉より引用

 聖書のみことばにもとづいて、主の御心が何であるかを知る時、私たちは大胆に祈ることができます。主が、「私の祈りは聞き届けられている」という確信を与えてくださるまで祈り続けるべきです。「私の祈りは聞き届けられている」と確信した時から、もう、ああしてほしい、こうしてほしいと祈る必要はなくなります。その時には、私たちは、まもなく奇蹟を体験することができると信じているので、ただ感謝し、喜ぶことができるのです。

 主は私たちにつぎのような約束を与えてくださっています。

だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。〈マルコ11・24〉

 これはつまり「あなたの信じたとおりになる」ということです。私たちは、主によって遣わされた者として、祈りが聞かれていることを確信すべきです。イエス様がつぎのようにおっしゃっておられるのですから。

「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」〈ヨハネ17・18〉

アンドリュー・マーレー著『キリストとともに』〈100頁〉より引用、この著作は副題が「祈りの学校」であり、31課に分かれているが、その第11課でマルコ11・24を軸にすでに受けたものを信じなさいと「約束のものをいただく信仰」という題名で以下のことを述べている。

 なんという約束でしょう。あまりにも大きく、あまりにも神々しいので、私たちの小さな心では、この約束を受けとめることができません。神の力とエネルギーが私たちの心に入って、心を大きくし、神の愛と力がいかなるものを私たちにもたらすか、推し量らせてくださるのです。にもかかわらず、私たちはそれを認めようとせず、何とかして、自分が安全と考えて納得できるものにそれを限定してしまおうとします。信仰とは、決して神のみことばの真理についての単なる確信、ないしは、ある前提から導き出された結論といったものではありません。信仰とは、神がするとおっしゃったことを聞く耳であり、神がそれをなさるのを見る目です。だから、本当の信仰のあるところに答がないということはあり得ません。祈る時、神が私たちに求めておいでになること、すなわち「すでに受けたと信じなさい」ということを私たちが実行すれば、「そのとおりになります」という約束を実行してくださいます。「イスラエルの神、主はほむべきかな。主は御口をもって私の父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げて言われた」〈2歴代6・4〉ソロモンの祈りのこの基調は、あらゆる真実の祈りの基調でなければなりません。それは、御口をもって言われたことを御手をもって成し遂げてくださる神への賛美です。私たちは、この精神をもって、イエスが与えてくださった約束に耳を傾けましょう。その約束の各部分に神のメッセージがあります。

 「何でも。」このことばから、私たち人間の知恵は疑いを抱き始めます。これは文字通り真実なのでしょうか。文字通り真実でないとしたら、なぜ、イエスは「何でも」というような最も強い表現を使われたのでしょうか。更に、イエスがこのように語られたのは、この時だけではありません。主はこうお語りになったのではないでしょうか。「信じるなら、信じる者にはすべてのことができるのです。」「信仰があるなら、あなたにできないことはありません。」信仰とは、すべてを信じる弟子たちの整えられた心に、みことばによって働く聖霊のみわざです。ですから、このような信仰に対して、答が与えられないこと自体が不可能なことなのです。信仰とは、来るべき答の保証であり、先触です。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」そのとおりです。しかし、とかく人間の理性は、ここに、「都合がよければ」とか、「神のみころにかなうなら」という意味を曖昧にする文句を挿入して、危険を感ずるみことばの力を弱めようとします。私たちは、このように主のみことばを扱うことを大いに警戒しようではありませんか。主の約束は、掛値なしに文字通り真実です。主は、この「何でも」ということばを私たちの心に入れ、信仰の力がいかに強烈なものであるか、かしらはどんなにその肢体を神の力にあずからせたいと願っているか、御父は、御自身を全く信頼する弟子の思うままに力を与えようとされているかなどを、示そうと思っておられるのです。この「何でも」ということばを弱めれば、信仰もまた弱くなります。「何でも」とは無条件です。条件があるとすれば、ただ信じることでしょう。信じる前に、神の御心が何であるかを見出し、それを知らなければなりません。信じるということは、みことばと御霊の力にゆだね切ったたましいの動きです。それで、ひとたび信じる時、不可能はなくなります。神は、私たちが、この「何でも」ということばを、自分たちの考える可能性の標準にまで引き下げてしまうことをお許しになりません。キリストの「何でも」というみことばを、今こそ単純に私たちの信仰の目標とし、また希望として受けとめようではありませんか。それは種となることばです。与えられたとおりにいただき、心の中に納めておけば、やがてからが破れ、根が出て、いっぱいに根を張り、豊かな実を結ぶようになります。

 「祈って求めるものは何でも。」この「何でも」は、その答を期待するために、神のみもとに持ち出されるべきものです。そして、これを受ける信仰が祈りの実なのです。一面では、信仰は祈りの前に存在すべきです。しかし、他の面では、信仰は祈りの結果であり成果です。救い主の御前にあって、救い主と個人的に交わる時に信仰が生まれ、初めは手が届かないように思われたものをつかむことができるようになります。自分の願いが神の聖い御心の光のもとに照らし出され、動機を調べられ、本当にイエス・キリストの御名によって、ただ神の栄光のために求めているかどうか試みられるのは祈りにおいてです。私たちが、正しいものを正しい心で求めているかどうかを、御霊に示していただくよう待ち望むのも祈りにおいてです。祈る時、私たちは自分の信仰のなさを自覚し、信じますと御父に言うように導かれ、忍耐して待つことによって、自分の信仰の確かさを証明するようになります。イエスが私たちを教え、信仰を燃え上がらせてくださるのも祈りにおいてです。ですから、信仰に答が必要だとは思わないと言って祈らない者、あるいは祈っても真剣に祈らない者は、決して信じることを学ぶことができないでしょう。しかし、祈り求めることを始める者は、御座のもとでこそ、信仰の御霊が与えられることを見出すはずです。〈続きは明日〉)

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