2022年9月28日水曜日

わな(1)

さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。(マルコ12・13)

 これは計画的なことであるが、私たちは度々不用意の時にこの過失に陥り易い。人と論ずる時に(論ずることは研究であって善いことであるが)何とはなしに勝ちたい気持ちが先立って来る。

 論ずることによって、二人三人の知恵を協力させようという気分よりも、自分が言い勝ちたい気分が先立つ。そこで本質的でない言葉尻をつかまえる。家庭における歓談の最中にも、こんな事が起こる事がある。

 小さい事であっても、人間というものは聖書の示す如く罪に浸潤しておることを証拠だてる。どちらを向いても悔い改めと謙遜との必要を認める。

祈祷
天の父よ、願わくは如何なる方法によるも人に勝たんとする罪の根より私を救い給え。人に勝たんとするよりも、自己に勝たんとする心、明日の自己を今日の自己に優らしめんとする心、自己を凌駕し自己を超越し、ただあなたに近づかんとする心を、私に与え給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著271頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 311https://www.youtube.com/watch?v=RTSwApFzNN8 

クレッツマン『聖書の黙想』〈189頁〉より

 ほとんど想像もつかないような図太さで、ユダヤ人は再び、矛先を向けて、戻って来た。今度はパリサイ人が問題を一つ用意していた。しかし、彼らは賢明にも、自ら、出かけて行くようなことはせず、ことを全く自然で当たり障りのないものに見せるために、ローマ人と親しいヘロデ党の者と一緒に、その中で最も抜け目のない連中をイエスのもとに遣わし、むずかしい問題の解決を迫った。

David Smithの『Days of His Flesh』〈原文403頁、邦訳779頁〉第42章 有司との対戦8 税金についての質問 より 

 これを滅亡せしむる決心をもって主の敵は、さらにその陋劣な心事を暴露する巧妙な他のわなを工夫した。彼らは自ら立ち向かうことを避けて、代表者としてタルソのサウロの如くラビの学校において教育されるパリサイ人の弟子なる数人の青年とヘロデ党である政府部内のサドカイ人数人を遣わした。当然その距離の遠いサドカイ人とパリサイ人とが、この不名誉の同盟を結び、共同してイエスに反抗したのはこれが初めてではなかった〈マルコ3・6〉)

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