2022年4月2日土曜日

主の尊い委託を受けた十二弟子

イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それから、イエスは、近くの村々を教えて回られた。また十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。(マルコ6・6〜7)

 『ふたりずつ』、これは賢明なイエスの周到な注意を示している。まだ未熟の弟子を送り出すのにもっとも必要であったと思われる。次に『汚れた霊を追い出す権威』や病める者を癒す力を与え給うたことは実に奇蹟中の奇蹟であると思う。

 ただ意志の力一つで十二人の人にこの大なる権威と力を与えることができたのは不思議中の不思議ではないだろうか。しかもイエスも弟子ももっとも簡単に易々とこの力を授受している。これは信仰とは如何なるものであるかを後世の私たちにまで示して居らぬであろうか。

 師の大なる能力は絶対に師を信ずる弟子の心の中に働くことができたのである。秘密でも何でもない。『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し・・・』(マルコ16・17)と約束されたことと同じである。

祈祷

主よ信じます、私の不信仰を憐れんでください。あなたが私に与えようと欲しておられる賜物が余りにも大きいがために、不信仰によって私がこれを拒絶することを恐れています。願わくは、大いなる信仰をもって、大いなる恵みを受ける者とならせてください。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著92頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。昨日紹介した『受肉者耶蘇』の梗概でいけば、「9使徒の職分」がそれに該当する。以下はその文章である。 

 この憐れむべき光景〈註:故郷ナザレの人々がイエスを受け入れなかったこと〉はただに主の慟哭せらるる所のみならず、一層力を盡さるるの刺激となった。僅少なる時間をもってこの広大なる畑に労作せらるることはイエスの双手のみをもっては到底不可能であって、その熟慮の上計画せられたる如く、彼ら〈註:故郷ナザレの人々〉と暫く別れんことを決心せられた。

 すでに十二人に按手礼を施して、単にその後継者たるのみならず、同労者たらしめんとして、その事業を彼らに委託するに足る教育を充分に施されたのである。今各方面に眼を放って重要の時機到達せるを煩いつつ彼らを顧みて『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい』と仰られた。これ単に訓戒にあらず、古の預言者に『だれを遣わそう。だれがわれわれのために行くだろう』(イザヤ6・8)と神の仰られたる一般、むしろその懇請の語であって、イエスは十二人を凝視しつつ、彼らの唇より古の預言者の如く『ここに、私がおります。私を遣わしてください』との応答を受けんことを望まれたのであった。

 彼ら自らその恩命に馳せ参ずるの覚悟なくして、いずくんぞ働く者を祈ることを得ようか。彼らの如くイエスとともにあり、その御心を目撃し、その教訓を辱(かたじけのう)したものにあらずして何人かこれに適するものがあろうか。しかも彼らはその主の胸中をくわしく悟りながらもなお同僚の何人かが率先して奮発するのを互いに黙然として応じなかった。イエスはこれがために躊躇せられなかった。如何に彼らが志を有せずとも、すでに使命は彼らに任ぜられている。彼らが収穫に馳せ行かずとも、すでに彼らを追わずんばやまれないのである。イエスは彼らを召して、その命を与え、二人を一組としてその聖名(みな)によりて福音を宣伝し、また病を癒しつつガリラヤ全土に巡回せしめんがために発足せしめられた。)

0 件のコメント:

コメントを投稿