2022年4月9日土曜日

『その王に会った先駆者』

護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。(マルコ6・27〜28)

 まことに無造作である。衛兵は少しの躊躇もなく大根でも切るようにヨハネの首を斬ってしまった。聖者の生命はかくも安価なものであるのか。然り、この世の目から見れば宗教とか信仰とか人格とか言ったものは安価なものであろう。口では人格を尊重するとか言うけれども、彼らの尊重する人格は財力や権力の伴わぬものには認められないのである。宗教や信仰は頭から軽蔑されている。この中に立って信仰の生活を続けて行くのは中々困難である。しかし首を斬られたヨハネは今日なお生きて私たちに語っているが、首を斬った兵卒はとくに死んで滅びて無くなってしまった。彼らは私たちにとってはかつて存在しなかったものと同様である。一日本当の生活をするのは、百年空虚な生活をするよりも長寿である。
祈祷
主よ、私に殉教者の死をお与えください。一日この世に生きるのであれば、一日殉教者の生活を送らせてください。私は、このヘロデの兵卒のように生きることを願わず、ヨハネの死のように死ぬのが私の願いです。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著98頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。クレッツマンは『聖書の黙想』98頁でこの冒頭の非情なできごと、しかし確かな希望について次のように語り、祈っている。

 慎み深さと、女性としての諸徳を失った心は、憐れみすら知らないのだろうか。うすきみの悪い願いを持って、宴会の席にもどって来たこの少女は、バプテスマのヨハネの首を、今すぐにと、この王にせきたてたのだ。無情なこの王でさえも、それはショックだった。彼の約束と誓いとをひっこめることができたら、なんとよいことだっただろうか。しかし客の面前での誤った恥意識は、彼の吐いた言葉に彼を固執させたのだった。彼は彼の人間性を確認させ、正義を守り抜く機会を失った。しかも彼の心の中に神へのおそれもなく・・・。

 そこで死刑執行人がその命を受ける。イエスご自身がすべての預言者の中で最も偉大なものと呼んだヨハネには、死の準備のための一刻の猶予も与えられはしない。まもなく、彼の敬虔な霊は、主の御前にとどく。今や王に、その先駆者はまみえているのだ。

 死刑執行人がもどって来る。彼は、待っていた娘に、血だらけのヨハネの首を手渡し、彼女は、人間とはいえないおそろしい怪物の彼女の母にそれを捧げる。彼らはそれに満足を得るのだ。しかし本当に満足するだろうか。罪は喜びをもたらすことはないのを思い出すがよい。それ以上の幸福を知らない魂に憐れみあれ。

 しかしそうあって願わしいように、ある人々は正義感を持ち、人間らしい気持ちをあらわした。このしらせが、ヨハネの弟子たちの所にとどけられたのである。弟子たちは悲しみにくれながらやって来て、彼らの慕っていた師のなきがらをひきとり、手厚くほうむった。このようにして一人の神の貴人の生涯は、その幕を閉じたのである。
祈り
 主イエスよ、わたしたちは、あなたを人の前で告白し、悪に抗し 、正義のために証することにおいて、あまりにも臆病です。このようなわたしたちの弱さと罪とを懺悔いたします。なんとたやすく、わたしたちは、他人の罪に組するものでしょうか。わたしたちに、あなたへの忠実な友、バプテスマのヨハネの信仰をお与えください。そして、この世は、わたしたちを、あなたとあなたの父の愛から離すことができず、実際にわたしたちを少しも傷つけることができませんことを確信させて下さい。 アアメン
 
※憎しみが、平気で神に属するいのちを奪う。そのすべての事象を毎日映像をとおして、私たちは見せられている。神の救いや切にと祈る毎日である。)

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