川中を 餌を求む鴨 泳ぎ行き 漁るイエス 湖上歩む ※ |
然り、『幽霊』には海上を歩む力あるを容易に信じ得て、イエスの海上を歩むのを信じ得ない心は転倒した常識である。マルコが『おびえてしまったからである』と批評したのはもっともである。科学の名において発表せらるれば朝三暮四の愚説をも容易に信じ、イエスの名において発表せらるれば永久の真理も容易に信じ得ないのは現代人の病ではないか。奇蹟、復活、来世などを信ずる人の減少し行く現代の教会は『おびえてしまった』理性の転倒した教会ではあるまいか。人が何と言っても私はイエスを信ずる。今も私のために奇蹟を行い給うと信じる。その時イエスは私の心に『しっかりしなさい。わたしだ。恐ることはない』と言って下さる。『幽霊』ではない。『わたしだ』である。イエスには自信がある。『わたしだ』の語には権威がある。『わたしだ、されば水上を歩むぐらいのことは当然すぎる当然ではないのか』との響きがある。この響きは私の心に平安を囁く。
祈祷
主イエスよ、私は騒ぎません。信じます。私は恐れません。ただあなたによりすがります。ペテロのように海の上をも歩んであなたに到ります。どこまでも信じ通させて下さいませ。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著108頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。※鴨は当然の如く川中を泳ぎ回り、餌を求める。詩篇104篇には造物主によっていかに世界が造られているかを美しく描いている。
主は家畜のために草を、
また、人に役立つ植物を生えさせられます。
人が地から食物を得るために。
また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。
油によるよりも顔をつややかにするために。
また、人の心をささえる食物をも。
主の木々は満ち足りています。
主の植えたレバノンの杉の木も。
そこに、鳥は巣をかけ、
こうのとりは、もみの木をその宿としています。
その主は、私たちの霊の眼が開かれることを切に願っておられる。そのためにも古の日、ガリラヤ湖上を歩かれた。それは罪のゆえに滅ぶしかない私たちを救うためであった。漁〈すなど〉るためであった。今日は武里駅前に新設なるレストラン『ハンバーグ・ステーキ&J』に出かけた。55年前に教え子であった方のご子息が4/21にオープンされるのにちなんでプレオープンされ、奥様からご案内を受けたからである。教え子の方は今はいない。天の御国に居を移しておられる。イエスさまに漁られなさったからである。)
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