2022年4月27日水曜日

「縁なき衆生」に心から語られる主

イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい・・」(マルコ7・14)

 町や村や部落までも巡り給うて折角大衆と親しみつつあり給うた時『パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来て・・』(マルコ7・1)無益な問答でヒマをつぶしたのを如何にも残念に思われた様子が『再び群衆を呼び寄せて』の文字に現れている。主はいつでも大衆に呼びかけ給う。特権階級のパリサイ人や学者は彼から遠い人達であった。社会の下層に押しつけられた大衆こそイエスに聴きて悟り得る人達である。貧しき者は幸いなるかなとの叫びを以って群衆に呼びかけ給うたイエスは今日でも富貴や権勢や知識を誇ることを知らない群衆を呼び寄せ給う。

祈祷
主よ、願わくは、私が持っていると思うものをことごとく剥ぎ取ってください。そうして私は何も持っていない一介の罪人としてあなたのところに行く者とさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著117頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 この聖書箇所に因む二文を以下紹介する。

 預言者のことばは、テンポが速く、力があり、人の心を鋭く探り、決定的な響きを持っていた。パリサイ人を狼狽させるのに、これ以上のものは必要なかった。このイエスの聖なる御告げは、言い伝えの擁護者には反駁できないものであった。

 しかしイエスは、霊的に盲目な指導によって破滅に導かれていた気の毒な群衆に同情しておられたので、これまでの論争を周りに立って聞いていた彼らにも、一言語りかける機会を持たれた。イエスは彼らに、簡潔で要を得た格言のような形で述べられている。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」

 これは解くことができる謎であり、尋ね求めることができる知恵の秘密であり、学びとることができる宗教の学課である。その意味は、この時には悟る者が少数であったとしても、非常に明白であった。それは次のように言うことができる。「パリサイ人のように手を清めることにではなく、心をきよめることに最大の注意を払いなさい。心がきよければ、全身がきよいのです。心がきよくなければ、どんなに外側をきれいにしてもむだです。何にもまして恐れなければならない汚れは、儀式的にきよくない肉からくる汚れではなく、肉的な思いから生じる汚れ、悪い考え、情欲、悪い習慣からくる汚れなのです。」〈『十二使徒の訓練』上巻148頁〉

9「真の穢れ」
 これ実に敵を粉砕すべき答弁であって、イエスは威圧した相手から転じて、争論を傍観する左右の人々に向かって『聞いて悟りなさい。口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します』〈マタイ15・10〜11〉と仰せられた。この時パリサイ人はいたく憤って去り行くを見送れる十二使徒は、彼らの復讐を思うて戦きつつ主の語に対して抗議した。イエスは彼らの杞憂を戒め、パリサイ人の団体の末路を預言して『わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こぎにされます。彼らのことは放っておきなさい』と言い、また論争の相手であった敵を瞰して『彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです』〈マタイ15・13〜14〉と言い渡された。これ人口に膾炙する格言であって、かつて傲慢な宗教家の特性を喝破するに用いられたもので、傍聴者に誤解を与えないように彼らを戒め給うた。〈『受肉者耶蘇』上巻472頁〉

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