2016年5月23日月曜日

与えられたものを与える。

夫婦茶碗※

あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ10・8)
 
 マタイ10・8の文章は私たちがこれを金貨や銀貨にだけ適用することに満足していてはいけないことを示している。命令が語られた人(引用者註:十二使徒たち)は何も所有せず少しの金貨も銀貨も与えられなかった。はるかにすぐれた賜物をその人たちは受け、はるかにすぐれた賜物を与えるようにされていた。私たちはどんなものをただで受けたのか。聖書は三重の答えを与えている。

 (1)愛 神である私たちの父はおっしゃる。「わたしは喜んでこれを愛する。」(ホセア14・4)
 (2)義認 「神の恵みにより、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3・24)「キリストの血によって義と認められた」(ローマ5・9)
 (3)いのち 主はおっしゃる。「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」(黙示21・6)「報酬を受けずに神の福音」(2コリント11・7)を私たちに宣べ伝えた、と。

 私たちはそのような賜物を受けただけでなく、受けたものを知る責任がある。なぜなら「私たちは、・・・神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。」(1コリント2・12)とあるからである。全聖書は私たちにただで与えられているものの一つの長い目録である。しかし私たちはそれを自らの富だとみなすことはできない。なぜなら「すべては、あなたがたのもの」(1コリント3・21)だからである。ことばに言い表わすことのできない賜物を持っておられるイエス・キリスト御自身が「すべてのものを持っておられる」お方なのだ。
 
 「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(1ペテロ4・10)どのようにあなたはこのことをしようとしているか。それを金銭上の問題にできるか。それはあなたが受け取ったものなのか。「私は、進んでささげるささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます。」(詩篇54・6)と言おうとしないのか。ささげものなのだ!どんな?

 「兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」(ローマ12・1)喜んでささげる人はかなりいるが、その道は神様がすでに完全に守っておられた道なのだ。その道が全く守られていない人はいないか(いるはずがないではないか)。

 ご自身の御子を出し惜しみされず、御子とともに私たちに無代価ですべてのものを与えるお方は大変明確に大きな声でこうおっしゃる。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」(イザヤ6・8)「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と言うことのできる者は誰かいるか。それともあなたは拒むのだろうか。

力であられ友であるお方よ
あなたは私のために
どんなことをしてくださったのですか

あなたが極みまで愛してくださる 
そのご自身をあらわしてください

今認めることができますように
知られざる、語られざるあなたの愛を

ののしりに耐え
私のためにののしられた

私が祝福されるように
そして私が祝福の基となれますように

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-23-giving-what-was-given/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97308です。

※昨日、友からすばらしい贈り物をいただいた。日曜のメッセージはイザヤ29・16を引用聖句にして「神と人との関係」という題名で語られた。陶器である人間は、陶器師である神に対していったいどういう態度を取っているのか、心を探られる内容であった。折しも、このような陶器をいただいた。陶器師の心があらわれている作品を目の前にして、再びメッセージを深く想うことができた。2019.5.23追記 改めて訳し直した。それにしても三年前にこの夫婦茶碗をいただいた友と今別れてある。主よ、あわれみたまえ。) 

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