2016年5月21日土曜日

キリスト・イエスは罪と罪過から救われる

都市空間(53階建てのビル)※

キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。(1テモテ1・15)

 私たちは死にあってこういうことばによりたのみたいものです。でも、なぜ、同じように、いのちにあって、より頼み、「この方こそ、ご自分の民をその罪(単に一般的な罪からでなく、明確な民の数々の罪、個人的な複数の罪)から救ってくださる方です。」(マタイ1・21)という約束を自らに適用しないのでしょうか。

 「わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか。」(イザヤ50・2)主の救いはまことに完了しています。その働きは完璧であります。しかし、私たちの王はいまだに地の真中にあって救いを働かせておられます。彼の救いが現実であることを(もし私たちが主の力を信じてさえいるなら)日ごとの私たちの戦いの詳細に至るまで適用できるのです。
 
 私たちはその適用を最後に必要とするだけでなく、毎時間、毎分、今も必要としています。だから王なる方は「助けを叫び求める貧しい者や、助ける人のない悩む者を救い出す」(詩篇72・12)「貧しい者たちのいのちを救います。」(詩篇72・13)と言われます。今日、主があなたのたましいに「わたしがあなたの救いだ。」(詩篇35・3)と言われますように。


主よ、あなたはご自身の上に
私を支配する罪を置かれました

そしてあなたに立ち向かう
エホバの剣は
前面に、燃える刃先をひらめかせ


そう、義の一撃が
あなたの上に落ちました

それは決して私の上に
落ちないようにするためでありました

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-21-christ-jesus-saves-from-sin-and-sins/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97306です。

※今日は半日長男と行をともにした。六本木、新宿、吉祥寺二ヵ所と四つの場所をはしごした。それぞれに意味のある所在となった。明日は母が召されて55年を数える。長男は今やその若くして亡くなった母の歳を越えている。半世紀を越える間に様々な変容があった。変らないのは人の心である。) 

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