2016年5月16日月曜日

分かち合われた悲しみ


王はキデロン川を渡り(2サムエル15・23)
イエスは先頭に立って歩いて行かれた。(マルコ10・32)
 
 イエスは弟子たちとともにケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。旧約聖書の(預言の)影はどんなに正確に新約聖書の(みことばの)成就と一致していることでしょうか。悲しみとへりくだりの中でダビデ王はこのところで私たちの前に現われているのです。それは王の家を離れ、すべての栄光と喜びから追放され、知られざる苦悩へと引き渡されることでした。

 イエスの悲しみのうちに住まうことに想像は必要ないことです。平易なことばの情念で十分過ぎであり、もはやどんなペンもつけ加える力を持ちません。私たちは悲しみのうちにあるイエスとの交わりについて何かを経験しているでしょうか。叛逆者以外のすべての民がダビデ王とともに過ごしたのです。このケデロン川の渡し場、イエスにとって悲しみの小川であったことの何ほどかを知っているのでしょうか。

 イエスの苦悩との交わりを分かちあうこと、すなわちこの不思議な特権について考えることは恐らくおこがましいように見えるでしょう。
 
 けれども、「注意すべし」です。ダビデとともに過ごし、ともにいたのは力あるガテ人イタイそして彼のすべての部下、貴族、軍人たちだけでなく、全部の「子どもたち」(2サムエル15・22)もいたのです。

 だから子どもたち、弱い者、ダビデの一団の最も小さいメンバーがこのようにしてイエスに続いたのでしょう。分かち合う悲しみほどどんなものも人が他の者とより緊密にさせるものはありません。
 
すべての疲労は
イエスのふところに憩う権利
そして痛みは
イエスの限りなき同情への正門となる
争いでなく、王自身の御手が
栄光ある戦いに終止符を打とう
死でなく、あなたを永遠のいのちの地に導く

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-16-a-shared-sorrow/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97301です。今日の箇所は2サムエル15章以降とヨハネ18章以下を読み込むこととが求められているように思う。同時にハヴァガルが大文字小文字を用いてダビデ王とイエスを表現しているように見えるので、それに十分注意しながら訳したが、まだこの訳に確証が持てない。特に「pass over」の訳に苦労した。賢明な読者のご意見をお待ちしたい。) 

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