2013年1月15日火曜日

キリストを尋ねる罪人(2)

いただいた賀状より
いまかりに、わたしが一万ドルもするような非常な値うちのあるダイヤモンドをなくしたとしましょう。会堂にはいる時はポケットにあったのに、説教を終えた時にはポケットにありません。しかも、会堂のどこにもないのです。そのような時、見つけた人にあげますと言ったらどうでしょう。どんなにみなさんは真剣になるでしょうか。説教のことよりダイヤモンドのことを考えています。それを見つけさえすれば、一瞬にして貧乏から抜け出ることができます。死ぬまで人のせわにならないで生きて行けるのです。ああ、だれもかれも、じきに恐ろしいほど真剣になるでしょう。

同じように人々がキリストを求めるようにできたらと思います。ダイヤモンドよりも、もっと値うちのあるものを差し上げたいのです。救い(永遠の生命)は、この世界のあらゆるダイヤモンドよりも尊くはないでしょうか。

人々は眠っているようです。地獄の外にはとびらがないのを忘れているようです。そこにはいってしまえば、出ることはできません。神があなたを呼びさまし、自分の魂のことに真剣なものとしてくださるように願っています。人々は、わたしたちが真剣であり夢中であり燃えたっていると話しあいます。教会が神に対し燃えあがってくれれば、この世は根底からゆり動かされることでしょう。神が眠っている教会を呼びさましてくださるようにしていただきたいと思います。

もっとも早く流れる水は、しばしばもっとも深くもっとも静かな水です。仕事をはじめてください。やがて声をはりあげる時がくるでしょう。隣人と交わり、キリストと天国について語りあいなさい。遠い所へ行って、永遠の死という暗黒に向かっている人をさがさければならないということはありません。急いで助けに行きましょう。

キリスト者になりたいとほんとうに願い、そのことに熱心な人々を見たいと思います。「キリスト者になりたいと思いませんか」という問に、「そうだね、なってもいいね」と答えているのを耳にすることがあります。なんともあきれたことではありませんか。そのことばを変えないかぎり、神の国にはいることはないでしょう。「わたしは救われたい」と心の奥そこから叫んでいただきたいのです。

ペンテコステの日、「兄弟たちよ、わたしはどうしたらよいでしょうか」という声が聞かれました。この人たちは真剣でした。そしてただちにキリストを発見したのです。三千人の人々が、一心に求めてキリストを見出したのです。富をさがす時のようにキリストを尋ねるなら、すぐにキリストを発見するでしょう。たしかに世界はどよめきの声をあげるでしょう。あしたの朝までに、綿類の値が一度に一割か二割あがってごらんなさい。婦人たちの間に動揺があるでしょう。また、新聞も、だまっていないでしょう。そして、それがあたりまえのことで、商業が健全な発展をしているといいます。

けれども魂の救いについて、熱心になり真剣になり始めると、「あんなに夢中になってなんと不健全なことか」と叫びます。しかも、何千という死に向かって急いでいる人のことを語ろうとしないのです。あわれな飲んだくれをごらんなさい。天に向けられたうめき声を聞きませんか。しかもなお神の教会は眠り続けているのです。そこかしこに道を尋ね求めているのに、まるで夢遊病者のようにふらふらしています。富をさがし、名誉を求めるように、人々がキリストを求めるのはいったいいつのことでしょうか。

(『失われた羊を尋ねて』46〜48頁より引用。ムーディーは、人はダイヤモンド、富には一生懸命になるが、キリストを求めようとしないと慨嘆しています。その原因は主によって救われた人々、「教会」が眠っているからだと言っています。しかし、さらにその根底には空中の権威を持つサタンの支配があるのではないでしょうか。サタンはイエス様に荒野で誘惑を三度繰り返しますが、その最後に、地上の栄華を与えるから、わたしを拝めと要求したことに触れて、ウオッチマン・ニーは「サタンはこの世のすべての王国とその栄華を捨てようとしましたが、人の礼拝を受けるのを捨てようとはしませんでした。・・・サタンの一生の目的は、多くの偶像や宗教の背後で、人の礼拝を受けることです。・・・サタンは神が人の礼拝を受けられるのを奪おうとします」と述べています。肝に銘じたい言葉ではないでしょうか。)

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