2013年1月14日月曜日

キリストを尋ねる罪人(1)

山茶花よ 天より受けよ 牡丹雪  ※
あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くにおられるうちに呼び求めよ。(旧約聖書 イザヤ55・6)

今まで、人の子が失われた人を尋ねておられるということについて記してきました。この章では別の面、つまり人間の側のことをとりあげて見ましょう。人がその魂について真剣になり始めると、神を求め始めます。そして彼らがすぐに神に会うということを、わたしは見てまいりました。熱心な罪人は救おうとしておられる救い主に会うのです。

エレミヤ書29章13節にはなんとあるでしょうか。

「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会う」

このような人々、つまりキリストを一心に尋ね求める人々がキリストを見出すのです。わたしは不熱心にあきあきし、うんざりしています。不熱心な人間を好む人はいないでしょう。なまはんかな調子で、愛する人に心を傾ける人はいません。主も喜びたまわないのです。もし主を尋ね求め、主を見出そうとするならば、一心にそれをしなければなりません。ほとんどの人がキリストを見出すことのできない理由は、一心に追い求めないからだと思うのです。自分の魂の救いについて、恐ろしいほど一心でないのです。

神は真剣です。人間の魂の救いについて真剣であることは、神のなされたあらゆることから証明できます。神はそのひとり子を与え、わたしたちのために死なせることによってそれをお示しになりました。神の御子は死にたもうた時、真剣でありました。カルバリこそもっともよくそれを示していることです。主は、わたしたちが、魂の救いという重大な問題にぶつかる時、真剣であるように求めておられます。神を一心に求めて発見できなかった人をわたしは知りません。

ある夜、ひとりの青年が求道者室で、自分は救われる値うちのないものだ、けがれて悪い人間だと考えている姿に接して、全く心が新しくされるようでした。彼は自分の魂に対し、必死であり真剣であるゆえに希望があります。彼は自分が無価値なものだと思っていました。神の鏡の中で自分を見つめていたのです。そうする時、人間は自分はつまらないものだと知るのです。

神より遠ざかっている人は簡単に知ることができます。そういう人は、自分のことをいつも価値のあるものとして語るのです。しかし、信仰の目を持って神を見る時、ひざをかがめ、ちょうどヨブのように、ああ、わたしはつまらないものだと叫ぶのです。その時、彼のよさというものはことごとく消えてしまいます。

自分の救いに熱心でありさえすれば、キリストをすぐに発見するのです。キリストをひきおろすために高い所にのぼる必要はありません。深い所におりて、キリストを引きあげる必要もないのです。あるいはまた、キリストを見出そうと遠い町へ行くことも必要ありません。今、キリストは、ひとりひとりのそば近くにおられるのです。

ある時、ひとりの人が青年に向かって、家にもどってキリストを見出しなさいと話しているのを聞いたことがあります。そのように言いたくはありません。家にもどる前に死んでしまうかもしれません。聖書を正確に読むなら、福音がキリストをあすまたは一時間あとに見出しなさいと言っているのではなく、「今」と語っていることがわかります。キリストは、今、救おうとしてひとりひとりのそば近くにおられるのです。もし、人々が救われるために神のもとにきて救いに真剣であるならば、その心のとびらに神の子を見出すでしょう。

(『失われた羊を尋ねて』D.L.ムーディー著湖浜馨編44〜46頁より引用。※朝、家人はいつもより暖かいと申しました。私は雪空だと言いました。ところが先程から朝降り始めた雨が雪に変わりました。牡丹雪のようです。この分で行くと結構積もりそうです。写真は中間報告です。)

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