2013年1月2日水曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(8)

浅間山山麓 2013.1.2
ルカによる福音書の15章に、何が書いてあるでしょうか。ひとりの羊飼いが、羊の群を導きながらもどってきて、さくの中に入れています。羊のはいって行くのを、一匹、二匹、三匹と数えている姿が見えるようです。
「おや、百匹のはずなのに、まちがえたのかもしれない」
そしてもう一度数えなおします。「九十九匹だ。一匹迷ってしまったにちがいない」

彼は、「ほっておけば、もどってくるだろう」とは言いませんでした。そうです。彼は尋ね求めるのです。山の奥深くにはいってさがし、とうとう迷った羊を見つけだしました。肩に羊をのせて家にもどってまいります。羊が羊飼いを見つけたのでしょうか。いいえ、羊飼いが羊を見つけてつれもどったのです。羊飼いは、羊を見つけて喜びました。もちろん、羊は大喜びでさくの中へもどって行きました。けれどもそれ以上に喜んだのは羊飼いでした。彼は友だちを呼び集めて申しました。
「わたしといっしょに喜んでください」

次には、銀貨をなくしたひとりの婦人の話がでてきます。たぶん、誰かが彼女に借りたお金の銀貨十枚をわたしたのでしょう。夜になると、ポケットからお金を取り出して数えます。
「おや、九枚しかない。十枚のはずなのに」
もう一度数えなおします。「九枚しかない。どこにおいたのだろう。あれから外に出なかった」

ポケットの裏側をあけて見ると、あながあいています。その婦人はお金がポケットへもどって来るまで待っていたでしょうか。いいえ、彼女はほうきを取り、あかりを照らして、ていねいにさがします。長いすやテーブル、いすなどの家具をみな動かして見つけるまで、すみからすみまでをていねいにさがします。彼女がそれを見つけた時、誰が喜ぶでしょうか。一枚の銀貨でしょうか。いいえ、それを見つけた婦人です。

こういうたとえ話を用いて、キリストがお話しになっている偉大な真理は、神が尋ね求めておられるということです。キリストがまず人々を見出すのです。

ある夜、ひとりの若者が、自分はあまりにも罪が深くて救われていないのだと言います。どうしてでしょう。キリストは、そういう人を求めておいでになったのです。
「この人は、罪人を受け入れ、共に食事をしている」

ここで彼らがキリストに対してなした唯一の非難は、キリストが悪人を受け入れているということでした。しかし、実はそういう人こそ、キリストが喜んで受け入れようとされる人々なのです。自分は罪人なのだと認めることが、なされなければならないすべてなのです。もしそうすれば、救い主を持つことができるのです。罪が深ければ深いほど、救い主を必要とします。自分の心はかたくななのだとおっしゃるかもしれません。よろしい、それならキリストにくだいていただきなさい。自分ではできません。心がかたくなであればあるほど、キリストを必要とするのです。心がきたなければきたないほど救い主を必要とするのです。罪が黒い山のように立ちふさがっているならば、イエス・キリストの血がすべての罪からきよめてくださるということを思い出してください。キリストの血がおおいかくせないほどの大きな、きたない、くさった深い罪はないのです。ですから、もう一度、この昔ながらの福音を申し上げましょう。

「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」

(同書38〜40頁引用)

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