2013年1月13日日曜日

どのようにして神のみこころを尋ね求めるか(下)

蝋梅に 亡き義母の愛 想い出す
心にえり好みを持たないということは、消極的になることを意味するのではありません。えり好みを持たないとは、自分自身の判断力を行使して、神のみこころを行なう決心をすることです。心にえり好みがないということは、人がもはや「欲すること」や「欲しないこと」を持たないことを意味するのではありません。それが意味することは、人が神のみこころに関してはっきりする前は、心はどの道も好まないかもしれませんが、彼は神のみこころを行なう決心をしており、いったんそれをはっきりと知れば、喜んでそれを遂行するということです。

自分自身の意志で自分の取るべき道を決定すべき時、「欲すること」と「欲しないこと」の選択を持つべきではありません。しかしながら、神のみこころと自分の意志との間で決定をする時は、「欲すること」と「欲しないこと」の選択をしなければなりません。すなわち、わたしたちは神のみこころを行なうことを「欲する」べきであり、自分自身の意志を行なうことを「欲しない」のであるべきです。わたしたちは、神のみこころを選択し、自分自身の意志を拒絶するべきです。それは、わたしたちが意志や選択を持たないということではありません。わたしたちはそれを持ちますが、わたしたちの意志と選択は、神のみこころを行ない、神の選択をすることです。わたしたちに選択が無いのではありません。わたしたちは自分の選択を持っています。しかしながら、わたしたちは、神が欲せられることを欲する選択をするのです。

簡単に言えば、主のみこころを尋ね求める第一歩とは、わたしたちの前にある道に対し、心の中で意図したり、拒絶したりせず、どれが神のみこころであるか、わたしたちにはわからないとすることです。しかしながら、同時にわたしたちの心は、神のみこころを行ないたいという態度を持ち続けるべきです。わたしたちは、進んで自分の意志を主のみこころに服従させるべきです。

わたしたちに神のみこころがわからない理由は、わたしたちがこの一つの点において失敗しているからです。主は、進んで彼の意志を行なう者たちに対して、ご自分のみこころを啓示することを喜ばれます。進んで神のみこころを行なおうとしない者たちについては、彼らが神のみこころを尋ね求めることは、虚偽です。ですから、彼らはそれを見いだすことができないのです。こういうわけで、もし心の中に先入観があるのなら、神のみこころを尋ね求めることについて語ることさえしないほうがよいのです。人は、まず主の力に信頼し、心の中にある好みを徹底的に対処するべきです。それから、主がそのみこころを自分に啓示してくださることを望むことができます。そうでなければ、たとえ彼がすべての手段を知り、すべての手段を尽したとしても、それらは彼にとって役に立たないでしょう。

今までわたしたちが言ってきたことは、わたしたちの側に関することです。もしわたしたちが神の要求を満たしたなら、彼はどのようにしてわたしたちにそのみこころを示してくださるのでしょうか? 彼がわたしたちにそのみこころを示してくださるのは、聖霊、聖書、環境によってです。聖霊、聖書、環境がすべてそろう時、わたしたちはこれこそ確かに神のみこころであると断言することができます。

わたしたちは、日常生活で起こるすべてのことにおいて、このようにして主のみこころを尋ね求めるべきです。わたしたちは、日常生活で多くの小さな事柄において、自分自身の意志に従って不注意に振る舞っています。大きな事柄がやってきてはじめて、わたしたちは主のみこころを尋ね求めようとしますが、その時、彼はわたしたちから遠く離れてしまっているかのように思われます。これも主のみこころのように思われるし、あれもまた主のみこころのように思われます。すべての道が正しい道のように思われます。

わたしたちは、多くの時間を費やして主のみこころを尋ね求めるかもしれませんが、見いだせません。ですから、わたしたちは大きな事柄だけでなく小さな事柄においても、主のみこころを尋ね求めるべきです。もしわたしたちの日常生活において、主のみこころを尋ね求める習慣があれば、特別な出来事が起こる時、主のみこころを知ることは困難ではないでしょう。わたしたちは、主のみこころを尋ね求めることにおいて熟達し、主のみこころを尋ね求める習慣を持つべきです。もしわたしたちがそうするなら、いつ何が起きようとも、何が主のみこころであるかがわかるでしょう。

しばしば、神はそのみこころをわたしたちに、すぐには啓示されません。御父は決して誤ることはありません。もし彼が、そのみこころをわたしたちに後で啓示するほうがわたしたちにとって益になると思われるなら、そうされるでしょう。そのような時、みこころを知らなければ行動しないという態度を、わたしたちは保つべきです。危険性は、わたしたちが動きたがることにあります。わたしたちは、主のみこころを知る前に動きたがります。主は、わたしたちが彼を待ち、彼と共にゆっくりと進み、彼のみこころがはっきりとわかった時にのみ、わたしたちの歩を踏み出すことを願われます。

残念なことに、わたしたちはしばしば、環境によってせき立てられ、性急に行動することを好みます。結果として、わたしたちはしばしば主のみこころの路線から外れてしまいます。わたしは、一つのことを確信を持って言うことができます。性急に成された十の事柄のうち八つは、主のみこころからではありません。主イエスが地上におられた時、彼が性急に事を成されたのは一つもありません。わたしたちは彼から学ぶべきです。わたしたちは、主のみこころがはっきりとする前は、軽率に行動すべきではありません。わたしたちは、何が主のみこころであるかを見いだすまでは、何も始めないよう決心すべきです。主と共に歩むことが、非常に遅くなることではありません。最も速く前進する方法は、ひざまずき主と共に進むことです。

どうか主がわたしたちに多くの力を賜わり、彼の御前で静まり、彼を待ち望み、尋ね求めさせてくださいますように。わたしたちがあまりにも速く行動してしまう罪を、主の御前で告白しなければならない時から、どうか主がわたしたちを救い出してくださいますように。どうかわたしたちが、今から後、わたしたちの自己を止(と)め、自己から離れ、単一に主のみこころを尋ね求めますように。

( 『 クリスチャン生活と戦い』ウオッチマン・ニー全集第一巻159〜163頁より引用。一部何度読んでもわからない箇所が一箇所あるが、今日の文章をとおして、二つのみことばを想起することができた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」マタイ16・24 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ルカ16・10)

0 件のコメント:

コメントを投稿