2016年6月3日金曜日

救いか裁きか


捕えられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(箴言24・11〜12)

 このみことばを読む時、人はキリストを持つこととキリストなしでいることとの大きな違いについてまことにおぼろげに理解する。また、人はキリストなしには永遠が何であるか、そして永遠の意味することはもちろんのこと、永遠が意味しなければならないことについて、戦慄を覚えながらおぼろげに理解しているにすぎない。すなわち、私たちのこのような隣人のすべての人は金持ちであろうと貧乏人であろうと主とともにいるか主とともにいないかの状態で、その永遠の時を過ごさなければならないというとてつも大きな事実を突然気づくに過ぎないのである。

 男性であろうと女性であろうとこういうことをどのように信ずることができ、まわりの人々の世俗的な高揚以上のもの、時には気晴らし以上でさえないことのためには努力しないかを理解することはむつかしい、まことに大変むつかしいことである。「人々は気晴らしを持たねばならない」とこういう人々は主張するのだが。

 私は聖書に「しなければならない」ということばでなく、「私たちはみな、キリストのさばきの座に立つようになるのです」(ローマ14・10、2コリント5・10)ということばを見出す。だから、もしあなたがそのことをどんなふうに信じていても、問題は、あなたの前でただ気晴らしだけを求めて死にかかっている人々にとっていのちの泉であるべきあなた自身のくちびるをあなたがどのように注意して使うことができるかということだ。あなたは種を播くとおりに刈り入れるのだ。

あなたはその歌を歌わないのか
そのことばを口にしないのか
もっとも冷たいこころが
深くして長いまどろみから
動かされるにいたるまで

その時あなたの収穫は
豊かになるだろう
喜びいっぱい 大きな喜びだ

天国の夏の歌が鳴り響き
信仰の働きの実が見出される
栄光あふれる聖なる地だ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-3-savior-or-judge/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97319です。
例により今日も難解この上ない英文であった。意味するところが中々掴み得ない。辛うじて詩の部分が何となく理解できる。そこから本文を逆算するしかなかった。読者諸兄の賢明なご理解を賜わりたい。写真はここ二年近く訪ねている友人宅の帰りに目にした水田である。今は初夏、秋には収穫の稲穂が稔る。冒頭のみことばと照らし合わせて考えたい。) 

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