2016年6月8日水曜日

私たちはイエス様を見る

谷口幸三郎展より(東京・西荻「数寄和」画廊にて※)
目に見えない方を見るようにして(ヘブル11・27)

 もし私たちがつねに何事も、愛するお方を見たことがないのに、まるで主を見たかのように行動するならどれほど私たちの生活はちがったものとなることでしょうか。またどれだけより幸せであることでしょうか。

 冒頭のみことばはモーセについて言われたものです。そして信仰によってこの主を見ることは三つの効果を持ちました。

(1)「彼はエジプトを立ち去りました。」彼は神と神の民のためにはどんなことも諦める用意ができたのです。そのことが、彼をして神様がお勧めなさることに対して真実にして忠実な態度を取らしめたのです。彼は「目に見えない方」を見ている限り、他の事柄に対してどんな心配をしたと言うのでしょうか。

(2)そのことは彼の恐れをすべて取り去りました。主が彼の側におられる時、彼にとって「王の怒り」はどういうものであったでしょうか。何について恐れる必要があるでしょうか。

(3)そのことにより彼は「忍び通す」ことができ、砂漠の中に40年間耐えに耐えて待ち望み、荒野で40年間働くことができたのです。80年間あらゆることに耐え忍ぶことができたのも、その信仰により見ることがどれほどの力を与えることであるか、そのことしか頭になかったに違いないのです。

 今日、あなたもモーセにとってそのように大きな助けとなった(信仰によってイエス様を見る)ことを自分自身に試して見なさい。
 
「栄光から栄光へ」(2コリント3・18)
たとえ苦難に陥っても
苦難は私たちの宝に触れることはできません
キリストがすべてのすべてであります
私たちの目の前にどんなことが横たわっていようとも
恐れる必要はありません
イエス・キリストが近くにおられる時
痛みや悲しみは何ほどのものでしょうか

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-8-we-see-jesus/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97324です。

The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(3)
 もっとも小さい子どもであるフランシスの母に対する強い愛や深い悲しみは、フランシスの「四日間の幸せな日々」〈隠された影響をあらわしている〉のうちに力強く語られています。それはのちになって子どもの生活とことばとなって大変豊かな実を結んだのです。そしてまさしく同じ聖書の約束は母と子にとって同様に宝だったのです。その上、まさしく同じ賛美歌が母とフランシスの臨終に選ばれ、小さい時からの祈りが文字どおり答えられたのです。
 私を連れて行ってください
 私をあなたの光ある家に
 そこで私は愛する母と一緒に住まうのです
 そして永遠にあなたのいます輝きを喜ぶのです
 あなたの愛をほめあげさせてください
 あなたはすべてのことを良きにはからってくださるお方です
             フランシス・リドレー・ハヴァガル 詩 

※昨日は、火曜学び会だった。学び会ではイエス様はまことの教会を建てられる。それは決して宗教としてのキリスト教会のかたちではなく、それどころか、逆にイエス様抜きの教会は裁きの対象であり、新生の霊をいただいた者の集まる小さな群れ(Little Flock)をとおしてあらわされるのだと語られた。引用聖句はマルコ4・30〜34であった。
 そのあと二つの個展を訪ねた。いずれも同じ道路線上にある会場であった。今日の写真はその中の最初の展示であるが、明日はもう一つの展示の写真を載せたい。
 最初うかがった個展の作者の作品はここ20数年間鑑賞させていただいているが、いつ見ても心がリラックスさせられることは感謝である。ともにキリストにあっていのちをいただいた者同士、まさしく「小さな群れ」の一員である。オーナーとは初めてお会いしたが私たちと同県人であることに限りない親しみを覚えた。) 

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