2013年5月9日木曜日

証し人として生きようとする意欲(上)

「証し人として生きようとする意欲」については四つの事柄、すなわち愛すること、苦しむこと、走ること、重荷を負うことをあげることができます。

第一は愛することです。

人から愛されたくない人間は一人もいないでしょう。他の人から除け者にされ、孤立し、絶望的になった人は、決して幸せとは言えません。この世でも隣人を愛することについていろいろなことが言われていますが、結局はみな自分自身のことだけしか考えていません。本当の悩みは見過ごされ、過小評価されています。人間はみな、静けさと愛とを切に求め、憧れています。人間は憩いのないものです。人間は、財産を持ちたい、人から認められたいと思っています。しかしそれらの願いの背後には、永遠なるもの、真の満足を与えてくれるお方、すなわち主イエスに対する渇望が隠されています。もし私たちが主イエス・キリストを第一にし、心から愛し、その動機が純粋であるなら、私たちの周囲の人たちは自発的に主イエスを信じ、主に従う決心をするようになります。実は、今日一番必要とされているのはこのことなのです。

私たちの回りにいる人たちは、私たちがその人たちを本当に愛していること、助けてあげたいと思っていること、私たちはその人たちのために存在していること、その人たちのために喜んで犠牲を払い、時間を割こうとしていることに気がついているでしょうか。

第二に、苦しむことです。

苦しむとは、主イエスの苦しみにあずかるという意味です。主イエスは群衆をご覧になった時可哀想に思われました。それは彼らが羊飼いのいない羊のように、弱り果てて倒れていたからです。証し人として生きて行こうとする時、まず自分の周囲を正しく見る、つまり主イエスの目で見ることが大切です。それは、人々の本当の悩みを見ることでもあります。ある合唱曲の中に次のような一節があります。「今日世界が必要としているのは主イエスです。主お一人だけが世界を解放できます」。

主イエスの目でもって何百万人という人々の現実の姿を見る者は、主イエスの嘆きと同じ気持ちをもちます。そしてその人はこの世が「欲するもの」ではなく、「必要としているもの」を与えるでしょう。使徒の働きの3章に出てくる乞食は、お金や施し物を欲しがりました。確かにこの貧乏人はそのようなものさえあれば満足だったでしょう。しかし、幸運にも乞食の期待は裏切られました。そのかわり彼はもっとすばらしいものを貰いました。この乞食は自分の「欲しいもの」ではなく、「必要としているもの」を貰ったのです。

回りの人々に対して目を向けるようになると、その人は苦しみ始めます。エルサレムを思って泣いた主イエス様の苦しみを理解するようになります。エルサレムの町、そして人々が、真の平和のために必要なものを欲しいと思わず、かえってそれを受け取ることを拒んだゆえに、主イエスは苦しまれました。悔い改めて救いに至る機会を提供されているにもかかわらず、意識的に、無意識的に、人々が再三にわたって拒み続けたので、主は苦しまれたのです。

みこころにかなう教会とは、どのような教会なのでしょうか。それは、正しい教えを教えたり、この世の不信仰を裁いたりすることによってではなく、それらの下に身を屈め、本当に苦しんでいることによって見分けられます。主なる神の霊は深い同情の霊です。共に苦しまなければ、決して傷は癒されません。共に苦しむことのできない者は、主の愛を伝える者とはなれません。主が救ってくださる血潮の証し人でありたいと願うなら、私たち自身が苦しまなければなりません。

(『なにものも私たちを神の愛から引き離すことはできない(下巻)』ゴットホルド・ベック著293〜295頁より引用。写真は昨日の家庭集会に掲示した聖句看板である。家庭集会には地元の方はもちろんのこと、遠くから、長野から、宇都宮から、千葉から、東京から、ドイツからとそれぞれの方々が、主のみことばを求めて足を運んでくださった。次回は5月29日午前10時半からである。)

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