2013年6月13日木曜日

主は支えてくださる(起) ゴットホルド・ベック

パリバガテル公園 by Nobuo.Y   2012.6.17
今歌われた歌(日々の歌11番)はドイツで恐らく知らない人はいないかもしれない。こどもの歌です。主は「愛」そのものである。聖書の中心テーマではないでしょうか。すなわち、どうしようもない人間は、何を知るべきか、信ずべきかなどではない、主は愛する者です。信じられにくい、悩んでいる人々は、「どうして」「なぜ」と考えます。けれどもいつかわかります。今読んでもらいました箇所、詩篇37篇はもちろんダビデの告白です。2節だけもう一回読みます。23節、24節

人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。

本当にすばらしい約束です。全能なるお方はどうしようもない人間を導き、守り、目標をもって導いてくださることを約束しておられます。これらの事実は段階的に証されていますね。

第一番目「主の(わたくしたちについての)記述」、それから「主の目標」 、また「主の方法」、四番目「主の喜び」、五番目「主の預言」、六番目「主の保障」、そして第七番目「主の力」について、詩篇の作者であるダビデは証したのです。

まず、「主の記述」についてです。主は、主が導き、守り、目的地まで連れて行きたいと思っておられる。これこそすばらしい事実です。主の約束は誰にあてはまるのでしょうか。私たちが考えられているのでしょうか。主は誰のことを言われているのでしょうか。

この日本語の訳語にはひとつのことばが抜けてしまっているようです。すなわち、日本語の聖書は 「人の歩みは主によって確かにされる」とありますが、原語を見ると、本来は「良い人の歩みは主によって確かにされる」となっているのです。それによって、ここにあらわれてくる問題は、当然のことながら、いったい誰が良い人なのでしょうかということになるわけです。私たちはみな、私たちが決して良い人間ではないことを知っています。ソロモンは何と言ったか。伝道者の書の7章20節ですけど、ひと文章です。

この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。

となっているんです。いかなる人間も、人そのものは立派であるという人はいません。イザヤ書の中で、イザヤ書とは旧約聖書の福音書と呼ばれているものですけど、イザヤ書の64章の6節に

私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。

とあります。別の言葉で表現するなら、どんなに立派な人であっても、主なる神の目には無価値であるということです。主は人間から出て来るものを何一つ受け入れられない。私たちの最もよいものというものは、主にとっては忌まわしいものです。パウロは次のように証しするとき、そのことを言っているのではないでしょうか。有名なローマ書7章18節

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。

人間は、人間の全く滅ぶべき性質についての知らせを、(今日多くの人々は)時代遅れだとみなしたいのです。人道主義者たちはそのような言明を聞くと怒り猛ります。そして実際は悪魔の努力が功を奏し、多くの人々は自分がそれほどひどくはない。少なくとも隣の人よりはひどくないと思い込んでしまうのです。しかし、主はわれわれ人間が悪い者であり、正しくない者であり、決して愛されるに値しない者であると断言しています。これが、主のご判断です。

そうすると良い人に対する約束はわれわれにもあてはまるなのでしょうか。良い人とは、主が正しい人ということがおできになる人です。そして、主はだれのことを正しい人だとおっしゃるのでしょうか。それは自分が劣悪の者であると認識し、すべての苦しみ、債務、罪をもって主のもとに避け所を求める人です。また、それはあわれみを乞い願い、自分の債務を告白する人です。そのような人に赦しが与えられます。

それですから、もはや自分の力や良い行ないに基づかず、イエス様に信頼を置く人こそ、ここで言う良い人のことです。パウロはローマにいる人々に書いたのです。1節です。ローマ書13章14節

主イエス・キリストを着なさい。

とあります。「主を着る」とは、主を個人的な贖い主として受け入れ、罪の赦しを確信することを意味します。1コリント1章30節とは本当にすばらしい箇所です。この30節によると、主は私たちにとって「義」となられました。主なる神の前に役に立つ義とは結局イエス様ご自身です。それですから、イエス様を持っている人は義とされているのです。それはその人が良いことを行なったからではない、ただイエス様のために義とされるのです。自分の過ちまた債務を持ってイエス様のみもとに行き、罪を告白する人はだれでも、いつでも受け入れられる、ということはすばらしい事実であり、本当の意味での福音です。イエス様こそただひとり、正しい罪なきお方であり、主なる神によって受け入れられるただひとりのお方です。それですから主イエス様によって受け入れられている人は、それによって受け入れられる者、そして受け入れられた者に属しているのです。イエス様の義は私たちが主に信頼を置いたゆえにのみわれわれに与えられています。すでにイザヤはこのすばらしい経験をしました。イザヤ書の61章の10節です。1126頁になりますが

わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。 

主の目に良い人というのは、あらゆる芝居をやめて、飾らずに、自分の債務を意識して恵みを願いイエス様の功績に信頼を置く人だけです。イエス様を信ずることによって義とされた人こそ、聖書に言っている「良い人」ですって。

私たちは主の目に良い人に属しているのでしょうか。良い人というのは自分の悪い性質を認識し、告白した人であり、主イエス様にある神の義を受け入れた人です。債務を持った罪人としてイエス様の身元に来る者は必ず受け入れられます。その人はイエス様の義が与えられます。イエス様に信頼を置く人は生けるまことの神が良い人と呼んでくださる人々に属しています。主はそういう人たちとともに来てくださり、そういう人たちを導き、守ってくださると約束しておられます。

 (昨日の夜の家庭集会の聞き書きである。都合4回にわけて連載する予定である。)

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