「薔薇」に「しゃくやく」に「ガーベラ」 愛の花束 |
その時祈りの際もその後も、私どもの心はいこいを得ます。その理由は祈りによって神の御名のあがめられんことをのみ求めているということです。
そうすると私どもは主を待つことができます。祈りの答えが早くてもおそくても主の御名のあがめられるために最もよく役立つ事柄を決められるよう主の御心にゆだねて待つことを学ぶのです。
祈る人がその祈りによってただ神の御名の栄光のほか何物も願わないとするならば、祈りがどんなに大胆でしつこくなることさえあるものであるかということを示すために一例を挙げてみましょう。
1490年ルターの親友、フリードリッヒ・ミコニウスが瀕死の病になりました。彼も他の人々も間もなく死ぬだろうと考えました。ある夜彼は最も親しくしているルターになつかしい別れのことばを震える手で書いたのです。
ルターはこの手紙を受け取って次のようにすぐ返事をしました。「私は君に神の御名において生きることを命ずる。なぜならば教会を改革する働きに君はなくてはならぬからだ。・・・主は君が死んだということを私に聞かしめたまわないで君を私より長生きさせてくださるであろう。このために私は祈っている。これは私のこころである。このこころの成らんことを。なぜならば神の御名があがめられんことを求めているのみだから」。
ルターの手紙が着いた時ミコニウスは既に語るちからを失っていました。しかし、しばらくして彼は回復したのです。そして正しく彼はルターより一ヵ月長生きをしました。
祈りの時「あなたは私が個人的な優位のためでもなく、また困難を避けるためでもなく、何でもかでも私の意のならんためでもなく、ただこのため、すなわちあなたの御名のあがめられることのためにだけ祈っていることをご承知であります」と神を見つめて語ることができる時ほど祈りにおいて私どもを大胆にするものはありません。
このように祈るなら、願いが聞かれない時もまた心の平安を得るでありましょう。
(『祈り』O.ハレスピー著東方信吉・岸千年訳147〜149頁より引用。「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです」ヨハネによる福音書14・13。)
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