さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」(新約聖書 ルカによる福音書11・1)
さてあなたは、「主よ、祈ることをわたしたちにも教えてください」とあえて祈りますか。これは正しいことです。正直でありなさい。あなたは試練、苦難を恐れています。また私もあなたも、お互いに神を恐れていることをよろこんで認めると思います。純粋な本能は、神が私どもを過酷に取り扱おうとしておられるというように、私どもにつげるかに思えます。そして同じ本能は、自己を信頼することができるということ、何が良いことかまた何が良くないことかを私どもが理解すると告げるように思われます。
しかし、この一事をおぼえてください。すなわち、あなたも私も、釘づけされた主の御手に自分をゆだねて、次のように告白するまでは幸福にならないということです。
人生の海の暗黒の嵐をついて
死が私にいどむところへ私をつかわしたまえ
苦悩が私をこころみるところへつかわしたまえ
御心のままに、愛しまつる主よ
たえず、私の杖となるよう
ただ御恵みを示したまわば
こうして、御霊が、祈り方を知らぬ人のために建てた祈りの学校に、あなたは自発的に登録するようになるのです。
祈りの学校に引き続いて在学しないので、清められた、優れた祈りの人となる人が少ないのです。その課程はたやすくはありません。そして困難は上に述べた肉体的、精神的試練だけではありません。この学校には、私どもの忍耐をひどく試みるものがあります。イエスご自身このことについて数回言っておられますが、ことにルカによる福音書18・1〜8に「失望せずにつねに祈るべき」ことを言っておられます。
私どもはたやすく落胆します。人のために、あることのために祈ることをせつに決心しながらも、幾度か次第に気落ちしていったことでしょう。その努力を続けようとしなかったのです。そして徐々に私どもは他の人のためにとりなしをすることを止めてしまいました。
祈りの学校の訓育を主宰するのは、祈りの霊であります。彼は各種の主題を与えないで、計画的にわずかの中心的なことに集中します。祈りに熟達するには、いろいろ多くの題目に精通する必要はありません。次のことだけを簡単に述べてみましょう。
第一に、毎日キリストを示すような機会が御霊に与えられなければなりません。これが絶対に必要欠くべからざることであります。キリストは私どもが彼を「見る」ことだけを必要とするおかたです。祈りは、私どもの心から出て来ます。自発的の祈り、確信の祈りです。キリストが祈りに答えたもうことを私どもは知るのです。またそれが主ご自身の喜びであることも知るのです。祈りと、とりなしとは、キリストと、祈る人との間の共同の喜びに満ちた不思議な力を持つ手段となります。
御霊の与えるさとしは、私どもの心にキリストを啓示しようとすることを妨げるいっさいのものを取り除くことをその目的としています。このことは前に「祈りの戦い」の章でお話しました。
第二に、御霊の与えるさとしは、私どもを熱心に求める者とすることを目的としています。とりなしの祈りは楕円形のように二つの中心をめぐって回転しています。すなわち、キリストと、私どもの窮乏とです。祈りにかかわる御霊の働きは、この二つを示し、単に理論だけでなく、実際にもこの二つを私どもの中に毎日毎日生き生きしたものにするのであります。
このことを毎日あなたの心に働かせるのが御霊であることを考えて、慰めを得なさい。自分の力で、あなたの目をキリストと世の窮乏とに見開くよう努力する必要はありません。
いや、あなたのすることは、みことばの中で、また祈りを通して、御霊がキリストについてまたあなたの窮乏について、語りたもうのを聞けばよいのです。このようにしてあなたはまもなく祈りと、とりなしに進歩をとげているのを見るでありましょう。
(『祈り』O.ハレスピー著東方信吉・岸千年訳185〜187頁より引用。)
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