2013年6月7日金曜日

ツェラーの祈り

今にも飛翔するカミキリムシ※
私は祈る時、もっと感情的に、またもっと熱烈であったたくさんの人の祈りを聞きましたが、彼のように祈る人を聞いたことがないといっても私が誇張しているとは思いません。ツェラーは逆に祈る時非常に静かで確信をもっていたのです。彼は神をよく知っていましたので、確信していたのです。

彼のように神に多くを期待して、自分の祈りにほとんど期待しない人を聞いたことがないと思います。彼は必要なものを神に告げただけです。その他のことは神が配慮してくださることを彼は知っていました。彼の祈りは、あたかも神が一番前の腰掛にすわっておられ、ツェラーはその前に立っているかのように、神との敬虔な、しかし自然の会話でありました。

私どもが朝の祈祷会に集まった時ツェラーは祈ることをたくさんもっていました。第一に私どもの交わりについて、次に老いた弱い病人全部のいる病院全体のために、最後に彼にとりなしの祈りを依頼した手紙を送ってよこしたいたるところにいる病気で不幸な人々のためにいのりました。多くの手紙がノルウェー、スウェーデンを除く欧州各国から彼のところへ来ました。

このように彼は、毎日多くの人のために、多くのことのために、祈ったのです。しかし、彼の祈りを聞いた時、私はひとりごとを申しました。

「彼は結局たった一つの祈りをしている、すなわち、神のみ名のあがめられるように」と。

たびたび彼は奇跡を祈りました。しかし「もしそれが主のみ名の栄光となるならば」と付け加えずにはおかなかったのです。あるいは即座のいやしを祈ることを恐れませんでした。しかし、いつも上に述べた条件をおいたのです。

彼は決して神を指図しあるいは神ご自身のお約束によって神を強制するということはしませんでした。奇跡をあらわす祈りはツェラーにとっては苦難を避けるための道ではなかったのです。それはただ神のみ名のあがめられるための手段でありました。

そういうわけで、彼はたびたびこう言っていました。「もしもっと神のみ名をあがめることになるならば、彼らをもっと長く病床においてください。しかしみ心ならばその病気を通してあなたのみ名をあがめる力を与えてください」と。

また彼はそのように他の人のために祈るばかりではありませんでした。他人の治癒のてだてとなった彼は自ら危険な内部的疾患に犯されていたのでした。それはやがて自分の苦しい死の原因となるかも知れないのです。彼はその病気によって神をあがめるように召されていることを知っていました。

(『祈り』O.ハレスビー著 東方新吉・ 岸千年訳144〜146頁より引用。彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。 わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。詩篇91・14〜16※昨日知人宅の玄関先でカミキリムシを見つけ、そのまま自転車のかごに乗せ、家に持って帰り、昆虫の大好きな孫に見せるために写真を撮った。バックはやはり自然がいいと思い、庭に放ってやったら、しばらくして飛翔した。)

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