2013年6月27日木曜日

祈りの学校(中)

第三に御霊は、祈りにかかわる克己の必要を教えます。

祈りととりなしほど、他の行為にまして克己を必要とするものはありません。御霊は私どもをこの克己に召すのです。もちろん、とりなしの行為の大部分はひそかになされます。そしてこの種の行為は、人に見える行為よりもさらに大きな努力を払わなければなりません。自分のすることを人に見られることが私どもにどんなに影響があるかは、驚くばかりです。私どもには皆、他人の称讃を得ようとする非常な弱さがあるということだけでなく、また私どもの行為が感謝され尊ばれるということは、私どもにとって非常な励ましであります。

それに自分の働きの結果を見たがるものです。しかし祈りの働きは、起こったことが自分のとりなしの結果であるか、あるいは他の人のとりなしの結果であるかを、いつもハッキリと私どもが知ることの出来ないのがその性格であります。

この二つの事実が、祈りに関連して多分に克己を要求するのです。

主がこの行為を遂行する人を得たもうことの困難な理由こそ、これであります。説教する人を得るのは容易であります。多くの人が説教したくて、もし説教をたのまれないと怒るのです。また頼まれた私どもは説教に熱心ですから、一度説教台に立てばこれを退くことがむずかしいほどです。しかし祈りにかかわる克己の行為を引き受ける人は、そう多くはありません。というのは、見られもしなければまた感謝もされないからです。

あなたは近所の未信仰者のために祈って来たでしょう。多分何年間も、そして近所にリバイバルが起こる。そして第一に回心した人々が、あなたが熱心に祈ってやったその人々です。しかし、あなたより外にそのことは誰も知らない。正当なことながら、あなたはそれを神とあなたとの間の秘密にしておく。その結果、だれもあなたのして来たことを話しません。しかし、一方では、集会で話した説教者の名前が皆の口にのぼります。皆、声高く彼をほめて、「なんと偉大な伝道説教者だろう」と言うのです。

友よ、あなたがこの静かなそして認められない祈りの行為に疲れはじめた時には、ひそかに見たもうお方が、あらわにあなたに報いたもうことをおぼえてください。彼はあなたの祈りを聞きたもうのです。そして救霊のために、あなたが祈りによってなしとげたことを正しく知りたもうのです。かのさばきの日の前でないとしても、その大いなる日には、あなたはその働きの収穫を幾束もとりいれていくことでありましょう。

祈りという立派な、またむずかしい芸術のうちでも、とりなしの祈りがもちろん一番困難です。このことについての私の理解では、とりなしの祈りこそ人間のなしうる最も確かな労作です。(中略)

私の出会った、最も立派な、最も忠実なとりなしの人々は、多くの試練と非常な苦しみの後に、はじめて聖なるとりなしの技術を学んだのです。ある人々が最後に行なうことが出来たのは、私がお話したあのメンネドルフの婦人のように、もはや顔のはえを追う力もなくなって、ベッドに横たわることでした。

しかし、彼らは、どんなに祈ることが出来たのでしょう。

彼らは人には見られないで横たわっていましたが、しかも霊的な力の中心でありました。その単純な、そして忍耐深い祈りによって、彼らは近隣に、共同体に、国に世界の隅々にまでなされている教会の働きの主(おも)なる支持者でありました。

私はこれらの見えないとりなし手の一人に会う度に、大きな発電所を思うのです。彼らはまたしばしば人里離れた谷間に隠されています。しかしそれにもかかわらず、彼らは非常に重要であります。それは、特に働かなくなった時わかってくる事柄です。働きがとまる時、私どもの家庭は暗黒になり、私どもの工場は停止します。

(『祈り』O.ハレスピー著東方信吉・岸千年訳188〜190頁より抜粋引用。「主は・・・とりなす者のいないのに驚かれた」イザヤ59・16。昨日で私ども家族を襲った椿事から40日が経過した。実に多くの方々がとりなしの祈りをしてくださっている。私たちのまわりには日々信仰者のとりなしの祈りを必要としている方々がたくさんいらっしゃることも教えられつつある。とりなしの手を下ろすことがないように主よ導いてください、と祈りたい。)

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