2013年6月16日日曜日

主は支えてくださる(結) ゴットホルド・ベック

パリバガテル公園 by Nobuo.Y   2012.6.17
6番目。「主の保障」について書かれていますね。

倒れてもまっさかさに倒されはしない

とあります。このみことばによって、倒れても、どんなにひどい倒れ方にしても、それは決して終わりではないことを保障しておられます。

信仰の父、神の友と呼ばれたアブラハムは倒れました。けれども、彼は回復されました。ヤコブは倒れました。しかし、彼もまた、神の恵みによって造り変えられました。ダビデは倒れました。しかし、主は彼を赦し、御心にかなった人を造り出しました。サムソンは倒れました。しかし、主は彼に新たに出会ってくださり、神の敵を全滅させるために、彼をお用いになりました。これらの人たちが倒れた時、それは主にとって大きな苦痛でしたでしょう。

イエス様を心に受け入れた人は、主のものです。しかし、いつまでも主のものです。私たちはみな倒れることがあります。けれども、それにもかかわらず、私たちは、主のものです。主は、われわれを愛し続け、忍耐を持ち続けてくださいます。そして、主はわれわれを決してお見捨てになりません。私たちは主の羊に属しています。私たちは、羊としてさまよったり、道に迷ったり、愚かさを重ねるようなことをすることができますけれど、主は次のように約束しておられます。よく知られている箇所です。ヨハネ伝10章27節

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

とイエス様は約束してくださいました。主に属する者は、誰でもこの主の保障を大いに喜ぶべきです。将来何があっても、主はわれわれをお見捨てにならない。われわれを導き、目的地まで連れて行ってくださるのです。ユダこそがそれをまとめて書いたのです。436頁ですね。ユダ書の24節、25節

あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。

と。主は目的地まで連れて行ってくださることができます。主はそれをご自身でなさることを保障してくださいます。

さて、そこに最後の点すなわち7番目の点は、主がこれをいかになさるかを示してくださいます。7番目、「主の力」についてですね。

主はその手を支えておられる

とあります。主は倒れた人を抱き、支えてくださるという意味です。信者は倒れることがあります。そして堕落してしまうように思われます。しかし、実際は主ご自身がその人の下に御手を入れてその人を支えてくださるのです。ですから、この人は完全に駄目になることはできません。ペテロはこのことを経験しました。マタイ伝の14章を見ると次のように書かれています。これを最後に読んで終わります。マタイ伝14章の30節と31節です。

ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」

主は支えてくださる。これは主の約束です。私たちも、私は主の御手のうちにあるということを知ることが許されています。主は御手を決して引っ込めません。決して私を離しません。私たちが主から逃げようとすることがあるかも知れない、しかし、主はしばらくの間、自分勝手な道を行かせることをなさるとしても、最終的には決してお見捨てになりません。主はあきらめず、必ず回復してくださいます。私たちは、新たに主に余すところなくゆだねることができれば本当に幸いです。

( 以上が6月12日の家庭集会の夜のメッセージである。全体を通じていかにこのメッセージが万人向けに語られたメッセージであるかがわかるであろう。ある方は「大切なかけがえのない家族に与えられた病のこの試練は、経験した者にしか解らない苦しみや悲しみがあります。家族も深く傷ついています」と最近寄越してくださった。ほぼ一月前に私たちも愛する者が倒れた。今も日々倒された状態が続いている。しかし、主はそのような苦しみがあるにもかかわらず、なお回復への道を確実にお約束してくださっているとは何と幸いなことだろうか。)

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