2013年6月19日水曜日

イエスさまに窮乏を差し出すことができる恵み

しゃくやくと紫陽花、こぼれる笑顔
まじめに祈る読者の中には、今にいたって(※私が祈りは神の御名があがめられるように祈る祈りがたいせつであると言ったことで)必ずゆううつに感じる人もあるでしょう。今まで話したことから、あなたたちは祈りの神聖なる特権をまったく誤解し、誤用してきたのではないかと不安に思いはじめているでしょう。あなたたちは毎日の祈りの生活で、大小あらゆることを神に語って来ました。最も小さなことも神に求めたでありましょう。

そしてこれが祈りの誤用であること、それゆえに直ぐに止めるべきだということを思っておられる。深い嘆息が心から起こってくるのです。

いやいや、わが友よ、決して止めてはなりません。逆にあなたが神と語る毎日の会話に、もっともっと単純な心を与えられるように祈るべきであります。日常生活でなんでも神と語ることができるほどに、神と打ち明け話が出来るよう祈りなさい。これが神の求めたもう事柄であります。これこそが神が私どもに祈らせようとなさることであります。あなたは必ず次の聖句を思い出すでありましょう。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリピ4・6)

私どもの日常生活にはきわめて容易に憂いとなるものがあるのを神は知りたもうのです。私どもの日常生活が決して大きな事柄ではなく、小さな事柄からなり立っていることも知りたいものです。それですから彼は、私どもを親しく招いてこう言われます。「これらの小さいことをみんな私のところへ持っていらっしゃい。心から喜んであなたを助けましょう」。

あなたの日常生活のことで、これは仔細なこと、問題にならぬことだからといって、主が祈りに答えて助けを与えられないというものは何もないことをしっかりと記憶して置きなさい。あなたは失った鍵を捜すことがあるでしょう。その鍵を手にしなければならない。いそいでいるが見つからない。信頼をもって神に行き、そしてあなたの苦境を告げなさい。あるいは、あなたの小さい子どもが外で遊んでいることもありましょう。その子供を自分のかわりに用をたしにやりたい。しかし捜す時間がない。自分で用たしに走る時間もない。確信をもって天にいます父にそれを告げなさい。

しかしながら前に述べた祈りは神の御名をあがめる目的で定められていることを忘れてはなりません。それだから大小何を祈るにしても、それが御名をあがめることであるならば、「私の祈りを聞き、助けたまえ。しかしもし御名をあがめることにならないならば私を苦境のなかにおきたまえ。このまま、今あるままの境遇で御名をあがめる力を与えたまえ」と祈りなさい。

ある人はこんなことは祈りの力と熱を弱めると思うかも知れません。しかし、それは要するに祈りの誤解によるのです。祈ることは私どもの窮乏に対してイエスを迎えることです。このように祈ることによってのみ、心をイエスに開くことに成功するのです。これは、神が望みたもうからだけでなく、神が望みたもうた時にもまた、私どものためにその御力を働かせたもう機会を主に与えるでありましょう。

その時平和とおちつきが私どもの心にあふれます。

(『祈り』O.ハレスピー著東方信吉・岸千年訳145〜147頁より引用。※は引用者がつけくわえたもの。)

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