2013年6月8日土曜日

2 The seed of greater things(1)

 パリバガテル公園 by Nobuo.Y   2012.6.17
カイロからの電報はリーダー・ハリス夫人のロンドンの大邸宅に届いた。彼女はペンテコステ祈祷連盟の会長であった。ハリス夫人は良い知らせが届いたものと思い、封筒を開きはやる心で中から薄い用紙を取り出した。しかし、その知らせは彼女を呆然とさせたものだった。

 オズワルドは主の御前にいます (OSWALD IN HIS PRESENCE)

彼女の心臓は高鳴り、伝えられたことを何とかことばに置き換えようと懸命であった。オズワルドがこの世にいないの? しかし、いつなの、どうして、いったいどのようにしてなの? 誰しも知りたいことだった。しかし、今は戦時なのだ。誰もがよくわかっていた。エジプトで封書が投函されても、イギリスに着くには三週間はかかるはずだと。ドイツ潜水艦の攻撃を避けるためには船には護衛艦が用意されていた時だ。恐らく、彼女はもっと詳細を知るためにYMCAに電報を送ることもできたはずだ。

けれども、ハリス夫人は窓から外を眺めた。外にはクラップハム・コモンの霧がかった樹木がひろがっていた。チェンバーズは学生たちと連れ立ってその間の草深い野道を歩くのが大好きだった。以前、(彼が設立した)聖書訓練学校は彼女のところから50ヤード(約50メートル)も離れていない所にあったからだ。今となっては彼女はその知らせを連盟中に送るしかしようがなかった。

4マイル離れた東部ダルウィッチではオズワルドの妹、ゲルトルードが、(電報を届けに来た配達夫のために)クレセント・ティンタゲル11番地のチェンバーズ家の扉を開くばかりだった。

 「電報? どうもごくろうさま」

妹はオズワルドの両親、クラレンスとハンナが食卓についている台所へと取って返した。ゲトルードは封筒をあごひげを伸ばし白髪頭の父に手渡した。父は三週間前に80歳の誕生日を迎えたばかりだった。父クラレンスは大きな声で読みあげた。

 「オズワルドは主の御前にいます(OSWALD IN HIS PRESENCE)」

どんな詳細も知る由がなかった。なぜ末息子が死んだのか一切説明がなかった。これが戦争中の知らせのやり方であった。三人はオズワルドの死の事実をよく理解しないまま、家族や友人に次のように手紙を書き始めた。「・・・電報がカイロから来た・・・オズワルドは主とともにいる・・・いずれ詳細は知らされるだろう」もし手紙が投函時間に間に合うなら、翌朝にはイングランドやスコットランドの他の人たちの所にも届くことだろう。

チェンバーズがなくなった時、アメリカ軍はヨーロッパに来てまだ五ヵ月しか経っていなかった。戦争熱は合衆国に依然としてみなぎっていて、「おれはヤンキー・ドゥードル・ダンディーだぞ」とか「わしらは戦争が終わるまでは帰らないぞ」などと歌っていたほどだった。しかし、チャーリー・チャップリン、メリー・ピックフォードやその他の映画スターは自由契約に入り、全家庭は戦争の早期終結のため祈っていた。

1917年も終わる頃、ほとんどあらゆる英国の家庭は戦争で夫や父や息子を失っていた。1916年7月のソンムの戦いでは60万人の同盟軍兵士が戦死した。ドイツは50万人を失った。国際的な規模で悲劇を避けられなかった人々はひとりひとりが何度も何度も深い悲しみの痛みで身を引き裂かれねばならなかったのだ。英国は制限された食事や財政的な困窮、さらに破壊された生活のゆえに疲労こんばいしていた。けれども依然として戦闘を続けることが決議されていたのだ。幾人かの人は「地には平和、人には善意が」というしるしは見られないが、4回目のクリスマスが近づく数ヶ月内には終わるだろうと予測していた。唯一の輝ける戦績はアレンバイ将軍のパレスチナへの進攻であった。チェンバーズは自身の召しが「より高い奉仕」へと導かれた時、その前線に赴く指令を以前から期待していたのであった(Chambers had been expecting orders to that front when his call came to "higher service.")。

( Oswald Chambers: Abandoned to God by David McCasland15〜16頁の私訳。最後の文章はひとつの決め手になる文章のように思うが、適切に訳せていない。例により英文を併記しておく。読者諸氏の適切な訳を教えていただきたい。「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」2コリント5・8

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