ここで答えのない祈りについてすこし語りましょう。
答えのない祈りは、私ども、特に子供らには非常な困難を与えることは否めません。子供らはイエスに祈ることを教えられました。彼らは主が親切で慈しみ深いことと、ご在世中彼に来る人をことごとく助けられたことを聞かされて来ました。その結果として彼らは、大小ことごとく確信をもってイエスに祈るのです。そしてその祈ったことを受けるよう本気で期待しています。
たいへんな危機が子供の生活にやって来ます。子供はイエスに何もかも祈ったが、その祈りに答えが与えられない。
ここで私どもは子供に助言をしてその事柄の説明をしてやらねばなりません。また子供と語るには写実的に語らねばなりません。そうでないと理解できないのです。例をもって説明しなければなりません。
たとえばときどき新聞で見る子供たちの事件、すなわちあやまって空気銃あるいは普通の銃で自分をうって生涯びっこになったり、また時には子供がそのようにして死んだりしたことを彼らに話してやることができます。これがどうして起こったか。
彼らが父や母に空気銃をねだったからです。また不幸にも彼らが求めたものを受けたからです。もし父母が十分考えてそんなに危険なものを与えなければ、そんな恐ろしい不幸に陥らずにすんだでありましょう。
このことは、私どもが神から、求める事柄を与えることをこばまれる時でさえ、神はあわれみ深くあることを、子供たちに教えることになります。
これについて私どもはこの教訓を繰り返し繰り返し学ぶ必要があります。というのは私どもはすぐ忘れるからです。私どもは生まれつき自信が非常に強く自分にとって善いことを自分が一番よく知っていると思っています。そして神が問題について別の考えをなさると、すぐ神は私どものことを考えないと疑うのです。大使徒さえ答えのない祈りを経験しました。
パウロはある時三度も祈ってなお求めたことを受けなかったことを語っています(コリント人への第二の手紙12・9〜10)。それは明らかに伝道事業に非常な妨げとなっている病気の問題でした。それを取り去りたまえと神に祈ったのです。しかし、神は彼の祈りをきくことをこばみたまいました。
この拒絶は、確かにパウロがその病苦を逃れるためだけに、肉体の刺が彼から取り去られるようにと祈って、祈りを誤用したからではありません。逆に彼はその伝道の働きのために、この刺が取り去られるよう祈ったのです。彼の祈りの真の目的は神の御名をあがめんためでありました。それにもかかわらず、彼の祈りは容れられなかったのです。
パウロがこのことについて三度祈り続けた時、彼は自分の個人的利益のためではなく、神の御名のあがめられんことのために祈っていることを意識していました。
それでも神が祈りを聞きたまわなかったのはパウロがその病苦の中にいつまでも在ることによって、神の御名が一層あがめられるからでありました。このようにしてパウロは、いつもけんそんであって神の力を受ける状態におかれていました。
この祈りのたたかいを通じて、神との交わりの大きな秘訣を学びました。それを彼は、このように申しています。「私が弱いときにこそ、私は強いからです」と。
イエスでさえ御父が答えたまわなかった祈りをなされたのです。そして彼もまた、三度「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。それはゲッセマネであったのでありまして、イエスが人類の救いのために受難死しなければならないという、いつもイエスには明確であった事柄を、サタンが彼を誘惑して、おぼろにするように神の許しを受けた時です。
しかしあの試みの暗黒の時にさえ、イエスの純真な従順なお心を私どもは見るのです。彼はその試みを暗黒の中でどんなに感ぜられたかを率直に御父に語りたまいました。しかし、それでも、彼の祈りたもう真の願いは「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」でありました。このことから、祈っていることが、本当に正しいかどうか、私どもが祈っている最中に疑いをもつのですが、神に祈る時、きまった願いをことばに出すことを恐れてはならないことを私どもは学ぶのです。
これにかかわりなく、あるきまった事柄、すなわち、天の父に話したいと切に感ずることを、祈り求めなければならないと私は申しておきます。しかし、同時にイエスのなされたように「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように」とつけ加えなければなりません。
(『祈り』O.ハレスピー著東方信吉・岸千年訳149〜152頁より引用。 )
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