2013年6月24日月曜日

召された聖徒は恵みと平安につつまれる

浅間山 2013.6.22
ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。(新約聖書 ローマ1・7前半)

こういう特徴ある呼称は美しく、かつ注目に値します。「神に愛され・・・召された聖徒たち」世の人々は、神様が自分たちを罪・咎から引き離し(主のものとして)買い戻すために、ひとり子を犠牲にされたほどに愛されているのです。神様の愛は、罪人を聖徒とするように召しておられる事実と分かちがたく結びついているのです。聖徒として、世の人々は神の契約の民であり、神の愛と関心の的であります。

キリストにある人はどんな人も神の聖徒の資格を持つのです。例外は一切存在しません。中間層は存在しないのです。人間の間に罪がいかにあろうとも、神様との関わりにあっては二つの階級しか存在しないのです。言うならば、キリストを信ずる者とキリストを信じない者、聖徒であるか罪人であるかということです。聖徒であるとはキリストの功(いさおし)と価値を受け取ることです。決して自分のものでない(キリストにある)譲りを分与されるのです。もっとも成熟した聖徒であっても自分自身では無罪ではなく聖くはありえないのですから、このことは神様の恵みの賜物でしかないのです。

神様はあらゆるキリスト者を聖徒として聖くご自身にふさわしい者と見てくださいます。なぜならキリストが聖であり、受け入れられる方であり、あらゆるキリスト者は「キリストを着て」いるからです。キリストの完全な罪滅ぼしの血潮だけが神様の前で有効であります。だから、キリストの血潮によってきよくせられた人はどんな人も「聖徒として召され」た聖いものとみなされるのです。キリスト者は神様の目からみて、聖さにおいて同等です。私たちの主が死なれ、よみがえられた働きをとおしてキリスト者は同等に義とされるのです。

ある信者は聖化において成長しているかも知れません。ある信者はキリストにあって子どものようであったり、青年のようであったり、父や母のようであったりするかもしれません。またある信者はその信仰が強いかも知れません。弱いかも知れません。またある信者は何事にも怠りがないかも知れません。ところが他の信者はとてもそうでないかもしれません。

けれども、(キリスト者はいかにあろうとも)あくまでもキリストによって聖と義を同等に持つのです。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。(ローマ1・7後半)

この使徒のあいさつは、真の祝福の基(もとい)である「恵み」と「平安」に言及しています。神の御霊が信者の心のうちに働くように、あらゆる善行をもたらすのは恵みです。恵みの泉から神のいのちに貢献するすべてのものが注ぎ出されるのです。恵みは神様の召しに形となってあらわれ、新生を与え、信仰を強め、成長させるのです。

ルターはこういうことを次のようにコメントしました。「恵みと平安が全キリスト者生活を大きく包むものである。恵みは罪・咎の赦しに結びつき、平安は不義から解放された良心に結びついている。」 人がそのことを悟るとき、どんな悪も父なる神様の知ることなしには起こりません。悪魔は心の真の平安たりうることよりむしろ信者のための祝福だけを求めるのです(When one has learned that no evil can befall without the Father's knowledge, and that he wills only blessing for the believer, than there can be true peace of mind and heart.)

使徒パウロは私たちのためにこの平安を示しています。それは神的で天的な平安です。主が「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14・27)とおっしゃった時、このことを話されたのです。

((Romans a devotional commentary by C.O.Rossenius 5~6頁 私訳。なおこの本の原著はロセニウスの母国スウェーデン語で書かれており、その英訳の訳である。例により英文併記は誤訳の恐れなしとしないところである。 )

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