2023年6月16日金曜日

半可通の『柏木義円』紹介(4)

横川SA内のミニ植物園 2023.5.4  
 まだまだこの『柏木義円』については考えるべきことがたくさんあるが、最後にどうしても触れておきたいことがある。それは森鴎外がいみじくもその小説『かのように』で触れている、ドイツでその当時流行った新神学の問題である。

 伝道者であった内村鑑三や牧師であった柏木義円がこのことに無関心であったどころか、積極的に自らの態度を明らかにしていることは推測できる。でも、そもそもこの新神学こそ同志社を席巻した一つの大騒動でなかったかと思っていたが、その実相についてはほとんど知らなかった。それが今回図らずも片野さんの御本を読んで気づかされた。以下の同氏の記述を紹介させていただく(ミネルヴァ書房版30頁以下からの抜粋紹介である)。

 先ずは当時の同志社が教会合同の危機に直面している場面の描写である(その背景には「徴兵制」の問題もあるのだが・・・)。そしてこの時こそ、柏木が知らず知らず、新島の精神を受け継ぐ人となって行く時でもある。題して「新島との再会」である。(文中「一致教会」とあるは、植村正久を中心とする教会、「組合教会」は同志社である。)

新島との再会

 1884年1月15日、柏木は同志社普通学校に再入学した。柏木25歳である。初めて同志社の門を叩いてから四年を経ていた。この時期に、政府は、前年の12月28日公布の改正徴兵令により、ミッション系の私立学校から徴兵猶予の特典を剥奪する方針を打ち出したため、私学は突然降って湧いたような混乱に襲われた。しかも日本のキリスト教界は、教会合同問題をめぐって大揺れだった。日本基督一致教会と日本組合基督教会との合同運動は、1886年に始まり、1890年まで続く。多勢が合同へと向かうなか、苦悩し孤立しながら異論を唱えつづけた新島は、柏木に信頼を寄せた。柏木は一徹な新島の姿勢を目の当たりにして感銘を受け、新島の唱える自由自治の信念を理解しようと努めはじめた。

 一致教会は、教会政治が年齢の高い長老によってなされることを主張する、長老主義の信条と組織をもつ外国諸教派の援助による日本初のプロテスタント教会である日本基督教会を母体とした、他方、組合教会は、各個教会の自治と主権を重んじる会衆主義を掲げていたが、アメリカン・ボードからの援助を受けていることによる諸種の制約を脱却するため自給独立の方向をめざしていた。しかし、各個教会の主権と自治を重んじるという以外に明快な組織論が見当たらない会衆主義の教会が、厳格な規則をもつ長老主義の教会と合同すれば併呑されるのは火を見るより明らかであった。牧師や長老には権限が集中しやすい。集団を統括するには中央集権は便利である。だが、それで各個教会の独立自治は守られるであろうか。教会員個々の独立自治は尊重されようか。だが、新島の危惧は、現実にはさらに困惑する事態をともなうものとなった。すなわち、新島は、組合教会自体が会衆主義の教会の運営や、その根本理念の自由と自治とに無理解である現実に気づいたのである。新島は、日本のキリスト教界からも、弟子らからも疎んじられて失意の底にあった。新島は自分の良心に照らして脱会を辞さない覚悟を述べた。そうした新島をわずかに支えたのが、柏木であった。

Dear Sir
 Though I am forbidden by the Doshisha to see any students, yet I am very anxious to see you alone and tell you something about our school. So please call on me after your supper this evening.
                                   Yours Truly
                                   Joe Neesima
 Do not let any one know of your coming to my house.

 よく知られた書簡である。校医から学生との面会を禁じられていた新島は、この夜、ひそかに柏木を呼び寄せて憂慮する胸のうちを明かした。話さないと胸が破裂しそうだ、もし一致、組合両教会が、そのときの合同教会の憲法案のように合同して同志社が合同教会の機関学校になったならば、自分は同志社を去って北海道に退くといった。(略)

 柏木が再入学した1884年は、こうして同志社にとっても多事多端な年となった。

愚俗の信と学者の信

(共に桑門の出である、井上円了〈東洋大学の創始者となる〉と柏木義円の間で交わされる、宗教論争が冒頭で紹介されるが、それは省略した。それを受けて)

 井上と柏木は、新進の宗教家と一介の平信徒という立場の相違こそあれ、いずれ劣らぬ気鋭の学究である。井上が揺籃期日本に相応しい宗教の近代化を提唱したとすれば、柏木は現実の国家や社会にとらわれない人間のあるべき理想を宗教に託した。宗教上の学識があろうがなかろうが、愚俗の信が学者の信に劣るところはない。自分は井上のように仏教哲学を修めているわけではなく、普通一般のキリスト教徒でしかない。だが、「宗教に重んずる所は上帝に在り、上帝の解釈に非ざるなり」、つまり宗教にとって重要なのは神を信じることにあるのであって、神の解釈にあるのではないと柏木は繰り返す。「基督信徒の信仰は上帝に仕えるに在り、上帝の解釈に非ず」、したがって「学者も愚俗も同信なり」、学者も一般信徒も、神に仕える点では同じである。一信仰者であるのに変わりはない、これが宗教というものであると、柏木の仏教批判としてなされたこの論法は、キリスト者柏木が終生拠って立ったものである。

 柏木は、キリスト教の神学に対しても同じ論法を用いた。この後柏木は、新神学を批判して「倫理的宗教を談ずるの学者必ずしも贖罪的宗教を信ずる匹夫匹婦に先立たざるなり」「孔夫子敬虔の至誠は、19世記の学者の伏して学ぶべき所なり」と述べている。

 また柏木は、「宗教界の進歩者とは最も敬虔の念の発達せしものを謂うなり」として、イエス・キリストを神の一回的な啓示とするキリスト教の正統的理解から逸脱した解釈をもつ、海老名弾正らのような人々に対する批判とした。新神学もしくは自由主義神学は、神学やキリスト教に対する自由な解釈を認めて、明治20年代に組合教会などを中心に広がった。その特徴と社会的影響を一からげに指摘するのは困難だが、概して国家との融和を優先し、海老名や渡瀬常吉らが後の熊本英学校不敬事件以下で見せる、体制側との妥協的態度などが特徴として浮かぶ。

 学び、活動し、漢文講師としての働きと、柏木の多忙な日々はつづく。柏木は、1889年に同志社普通学校普通科を卒業し、同志社予備学校教員に就任した。そこで数学と作文を教えた。(略)

 翌1890年1月23日、療養中だった新島は急性腹膜炎症で逝去し、遺体は京都に運ばれた。新島邸に入る前に柏木が祈祷を捧げた。葬儀は、棺より大小の銘旗を運ぶことから埋葬までの総てを学生が担当して、一人の人夫も雇わず世人を感動させた。銘旗には勝海舟の書いた「自由教育、自治教会」が掲げられた。柏木は新島襄との永訣のときを迎えたのであった。

 淡々とした筆致の中に、新島から柏木へとバトンタッチされた精神が、どのようであったか、最初は仏教との戦いに、そして新手の新神学との戦いが柏木の残した文章を通して次々明らかにされて行く。しかも、彼は自分に洗礼を授けた海老名弾正を批判して、あくまでも聖書の真理、イエス・キリストの十字架の死と復活の贖罪の真理に踏みとどまった。

 私は長年、新神学が何ものであるかをよく知らなかったが、今回の片野さんの著作を精読して少し理解できるようになった。そして柏木義円、内村鑑三、森鴎外とほぼ1860年前後の横一線上に生を受けた彼らが、同じ空気を吸っていた近代日本の現実に、どのように内なる召しに従いながら、戦ったのかを少し追体験するような思いにさせられた。

 この三人のうちで、最も長生きをしたのは、在野の牧師であった柏木であった。しかも彼が抵抗した軍国主義の猛威が振るう中で召されて行った。その掌中には、新島の伝記資料がたくさんあったということだ。書かれるべくして、準備しながらも、とうとうその任を果たすことはできなかった。この彼の生涯は、主にあって罪赦された者は、天に宝を積むために、どのように生きることができるかのお手本を、私たちに残していると言えるのでないか。

 最後に著者片野さんに対するインタビュー記事が載っていたので紹介しておく。https://book.asahi.com/article/14854517

神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。(新約聖書 ヘブル人への手紙13章7節〜8節)

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