2018年11月29日木曜日

クリスチャンの希望(4)


私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。(コロサイ3・4)

 さてここですこしばかりユダヤ人と教会との区別を書いてみましょう。この区別はキリストの再臨を学ぶ上にきわめて大切であります。ユダヤ人はキリストの人民で、教会はキリストのからだであり新婦です。ユダヤ人は地につける者ですが、教会は天につける者であります。ユダヤ人はキリストので地上のめぐみをうけるものですが、教会はキリストにあって天上のめぐみをこうむるものです。(これについては申命記第28章とエペソ人への手紙第1章とを対照してお学びください。)神はアブラハムを偶像につかえている諸国民の中からお召しになり、その子孫をめぐむとのお約束をお与えになりました。(このお約束は決して変わりません、どんなに彼らが不信仰であっても。)

 いまイスラエルの歴史をくわしく記しませんが、アブラハムから約二千年主イエスがこの世にお生まれになった当時は、ユダヤの国はローマの属国となっていたのです。もちろんこれは彼らが神に従わなかった結果であります。しかし神がおちぶれたユダヤ人を救い、世界第一の国となさることは、旧約聖書にしばしば預言されています。主イエスはそのお約束によってかれらの救い主、メシヤ、王としてあらわれなさいました。しかし悲しいことには、ユダヤ人は、この自分たちの王をにくんで殺してしまったのです。しかし神はこのイエスをよみがえらせて天にあげ、その右に座らせられたのです。主は天において教会のかしらとなり、天のキリストのからだ(教会)を全世界(ユダヤ人、異邦人の区別なく)のなかから呼びあつめるお働きがはじまったのです。これがめぐみの時代であります。そこでわたしたちのような「希望もなく神もない者」(エペソ2・12)が、お救いにあずかったばかりでなく、キリストのからだの肢とされたというのは、なんという大きなめぐみではありませんか。

 キリストを殺したユダヤ人は、また神にすてられることになり、神殿はこわされ、民はちらされて今日のありさまになってしまいました。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言っておく『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」との主イエスの御言葉どおりです。(マタイ23・37〜39)主が今にも空中までくだって、教会を取りあげなさるとき、教会を集めるお働きはおわり、ふたたびユダヤ人についてのお働きがはじまります。ダニエル書にある70週、すなわち490年のうち、69週はキリストの死までにおわり、ただ最後の一週、7年がのこっています。(この70週は「あなたの民ーーユダヤ人と、あなたの聖なる町ーーエルサレムについて」定められているのです。)

 さてキリストの死と最後の一週とのあいだに、今のめぐみの時代(教会時代)がはさまっています。(教会は奥義であって、預言の問題でなく、旧約には示されてはいません。どうかこのことについて、エペソ人への手紙の第3章2〜11節によってお学び下さい。)教会が天にとりあげられて、めぐみの時代がおわれば、この最後の一週(7年)がはじまります。このときユダヤにいる一般のユダヤ人たちは、ローマの君(ローマ帝国は、今日西ヨーロッパ諸国に分裂していますが、そのうちに一つとなって、ふたたびローマ帝国をかたち造ります)と7年間の契約をとりむすび、その保護のもとにたち、宗教の自由をえて一時好都合のように見えますが、その後半(7年のなかば)になって、ローマの君は契約を無視し、犠牲と供え物を禁止して、偶像を神殿に立てることになります。この3年半のあいだユダヤ人にとって「世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難」(マタイ24・21)のときです。主が、ダニエル書の聖句をひいて「荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば」といましめなさったのはこの時のことです。(マタイ24・15)一般は神にそむき、にせキリストに従いますが、神に選ばれた少数のユダヤ人(のこりの人)は、非常な困難のなかに神に忠実につかえます。

 ついにエルサレムが万国の軍隊にかこまれ、どうすることもできなくなった時に、突然、キリストは聖徒たちをひきつれて、天から現われ、彼らに敵する悪人をたおして、救いなさいます。このことは前に記したゼカリヤ書第14章2〜4節に記されています。そして5節に「あなたがたの神、主はこられる、もろもろの聖者(聖徒)と共にこられる」とありますが、さきに取りあげられた聖徒たちは「キリストと共に栄光のうちに現われる」(コロサイ3・4)のであります。黙示録第19章を見ますと、新郎のキリストと新婦の教会との婚姻すなわち「小羊の婚姻」が天でおこなわれます。(教会はいまはキリストと婚約している処女です。)さらに天が開いて、キリストは天からあらわれて戦い、さばきなさるのです。そのとき、すべての聖徒たちはそのあとにしたがって現われます。そしてローマの君(けもの)、偽預言者、および地の諸王とその軍勢とはたちまちほろぼされるのです。このようにキリストが王国をお建てになるのは、そのしもべたちを用い、キリスト教の伝道によるのではなく、ご自身があらわれて、みずからお建てになるのです。権威とちからとをもって悪人を罰してお建てになるのであります。

(『クリスチャンの希望』山中為三著17〜22頁より引用)

0 件のコメント:

コメントを投稿