2018年11月26日月曜日

クリスチャンの希望(1)

往年の福音ポケットブック※
クリスチャンの希望なるキリストの再臨を聖書に基づいて書きますが、引用聖句は一々聖書を開いて、祈り深くお学び下さい。

 わたしたちの救い主イエス・キリストのふたたびおいでになるのは、どんなにさいわいなことでしょうか。これこそクリスチャンの「祝福に満ちた望み」(テトス2・13)です。この希望によってクリスチャン生活がいとなまれるのです。「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んで」いるのです。(ピリピ3・20)

 ヨハネの第一の手紙の第3章のはじめの「 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」とは、なんというすばらしいことではありませんか。

 初代のキリスト教会の信者たちは、「神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むように」なっていました。(第一テサロニケ1・10)

 ところが、今日多くの人は、クリスチャンが死ぬときに主がいらっしゃるように思っています。それは大きな間違いです。信者の死は「肉体を離れて主とともに住むこと」です。(第二コリント5・8)いまわたしが死ねば、この「幕屋(肉体)を脱ぎ捨て」て(第二ペテロ1・14)、主のみもとにゆき、主とともに住むのです。主イエスと共に十字架につけられた、あの救われた悪人に対して、主が「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」とおっしゃったとおりです。(ルカ23・43)死んだ信者は、たましいで主のもとにいくのであって、主がこられるのではありません。あの殉教者ステパノは、死の直前に「主イエスよ。私の霊をお受けください」と祈っています。(使徒7・59)

 さて、主イエスが天におのぼりになったとき、天をあおいで見ていた弟子たちに、天のつかいは「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様でまたおいでになります」とつげています。(使徒1・11)このとき天におのぼりになった「このイエス」は、いま栄光のからだをもって神の右にすわっていられますが、まもなく、このイエスご自身が天からおいでになるのです。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです(第一テサロニケ4・16〜17)と記されているキリストの再臨は、決して信者の死ぬときのことではありません。

 なおキリストを霊のように思うと、その再臨もわからなくなります。主は霊ではなく、いま肉と骨をそなえていられることは、ルカによる福音書24章36節以下に、はっきり示されているとおりです。すなわち、お甦りになった主イエスは、弟子たちに「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」と言われて、手と足とをお見せになり、みんなの前で食事をなさったのであります。

 もちろん主は霊において、いつも地上にいるわたしたちと共に世(時代)の終わりまでいてくださいます。(マタイ28・20)また御名によって集まるところに主はその中においでになるのです。(マタイ18・20)しかしわたしたちは「肉体を宿としている間は主から離れている。それでわたしたちは、見えるもの(現に見るところ)によらないで、信仰によって歩いている」のです。(第二コリント5・6〜7)

 「いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています」(第一ペテロ1・8)が、すぐにも「顔と顔とを合わせて見る」(第一コリント13・12)「そのまことの御姿を見る」ときをお待ちしています。それは「肉体から離れて」ではなく、わたしたちの卑しいからだが、主イエスご自身の栄光のからだと同じかたちに変えられて(ピリピ3・21)、「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会」が主ご自身に迎えられることであります。(エペソ5・27)これはどんなにすばらしい光景(事実)でしょうか。これこそクリスチャンの希望であります。

 キリストの再臨といえば、なにかむずかしい教理のように思い、わたしのような者は、ただ救い主を信じているだけでたくさんだという人もありますが、これはもっともさいわいな神の御約束であって、信者は聖書のみことばを文字通り信じ、「キリストに対する純情(無心)と貞操と」(2コリント11・3)をもって、今か今かと主のおいでをお待ちすべきです。

(※『クリスチャンの希望』山中為三著1957年刊行1〜7頁より引用。引用文のうちに著者が傍点が記されているところは青字で示した。本書は手のひらに入る小さなポケットブックだがそれでも総頁は45頁におよぶ。写真でお分かりのように、もはやボロボロになり、捨てられても同然の代物であったが、数年前に古本市で拾い上げたものである。しかし、中身は読んでいず、今日まで月日が経過した。なりは小さくとも、この文章を残された山中為三氏に関心を持ち、散逸するのを恐れて、ネット上で、同書を転写することにした。根気強くおつきあいいただきたい。著者についてもわかる範囲でご紹介していきたい。)

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