2016年11月29日火曜日

限りない恵み

彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し(マタイ25:15) 
私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。(エペソ4:7)

 賜物と恵みとどちらが偉大ですか。賜物は 「おのおのその能力に応じて」与えられています。すなわち、神様は私たちが用いることができると知っておられるのとちょうど同じものを与えられました。そして主がご存知のものを私たちは主のために最善に用いることができます。

 「私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」その最良の恵みの量りを得、用いて、あなたは恵みなしに世にあるもっともすばらしい知性よりももっと神様のために用いることができます。なぜなら、主のみことばの明瞭な光のうちにもっとも効果的に見えるものはどちらですか。つまりキリスト無しには「何もすることができない(そのことばを観察し信じなさい)ヨハネ15:5」 最善で最も完璧な生まれながらの能力か、それとも、かつて他の人にとってそうであったと同じようにあなたにとって自由な私たちの権威ある神様と聖霊の力の恵みかです。

 もし、あなたがあなたの限られた賜物を使用する責任があるなら、尋ねるために持たせられ、すでにキリストにあるあなたのものとされ、かつ限界がない恵みと力を使用する上においても同様の責任がないでしょうか。 

 神様の偉大な働きの分野にあっては
すべての働きが同じではない
主の聖なる御名を愛するそれぞれに主は奉仕をお持ちだ
そしてあらゆる甘美な響きの秘密が知られているあなたは
立ち上がりなさい
なぜなら主はあなたをあなた自身の使節に召しておられるから
その使命を実現するのに正しく
主の恵みはあなたを強くすることができ
あなたの責任に歌の職務を与えられた方

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-29-unlimited-grace/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97498です。今日の訳は誤訳があると思います。本文で直接お確かめください。また読者の方からの正しい訳を是非教えていただきたいと思います。

※Godhold Beck(99)
 ベック兄には随分とたくさんのメッセージがそれぞれ録音されて残されている。しかも、それは今日ネットで自由に聞くことができる。聖書に忠実であったベック兄のメッセージはそれを繙く者にみことばによる励ましを与える。今日から必要あって『聖霊の人格と働き』を聞き書きしたので少しずつ転記してみる。

『聖霊の人格と働き』[1]
「今言われたように、今日は洗礼式であり、それだけでなく五旬節でもありますね。日本でそんなに大切にされていませんが、外国へ行くと非常に大切にされている日なんです。今日はアイドリンゲンという小さな村で若者だけで少なくとも7000人、8000人くらい集まるようになるのです。みんな一緒に聖書を読んだり、学んだり交わったりするのです。毎回多くの人々はイエス様を信ずるようになり、救われ、また今からイエス様のためにだけ生きたいと決心する人々は多いのです。

 五旬節は神の霊が、聖霊がこの地上に注がれたことを記念する日です。もちろん五旬節は歴史的な事実であり、一回限りの出来事だったのです。今のS兄弟のお読みになりました箇所[ヨハネ7:37〜39]を見ると、「聖霊はまだ与えられていなかった、イエス様がまだ栄光をお受けにならなかったからである」と書き記されています。イエス様はもちろん今栄光を受けているのであり、そして注がれた御霊の唯一の目的とは信者を満たすよりも、イエス様のご栄光を明らかにすることです。イエス様御自身が中心になることこそが聖霊の切なる願いであります。イエス様の復活の後50日目に起こったできごとだったのです。もちろん旧約聖書の中で預言されたことです。

 イエス様はすべての人のために完全な救いを成就してくださいましたが、けど、この救いは我々一人一人の体験とならなければいけない。そして、このことはただ聖霊によってのみ実現されます。多くの人々は聖霊について考えると、やっぱり何かの力ではないかと、考えています。決してそうではありません。聖霊は力を及ぼすものよりも、人格者です。父なる神、また御子なる神・イエス様と全く同じような人格であります。もちろん、人間的な言葉でもって説明しようと思っても出来ません。まことの神を理解できる人間はもちろん一人もいない。我々の考えられる神、想像される神は自分の思想になります。偶像です。まことの神を私たちは皆信じていますけど、ほんとの意味で理解することが出来ません。したがって、いわゆる三位一体という奥義を理性でもってつかもうと思っても決して決してできないからです。

 別々にしようと思えば、次のように言えるかも知れません。すなわち父なる神は、我々一人一人のために永遠の昔、救いの計画をお立てになったと言うことです。イエス様は二千年前にこの救いの計画を実現された、と言うことです。そして、この成し遂げられた救いとは、聖霊の働きによって我々人間一人一人のものとなる、と言うことです。自分のものにならなければもちろん役に立たない、でしょう。ですから、比較することができませんけど、クリスマスよりも復活よりも、召天よりも大切なのは五旬節ではないかと考えられます。永遠なる救いを自分のものにならなければ、役に立たないのです。単なる教えに過ぎないからです。」

引用者註:いよいよクリスマスのシーズンに入った。それに対して五旬節は例年5、6月のある週の日曜日がこれに当てられていて、今の季節には不似合いの話題ではあるが、五旬節はクリスマスよりも大切だとベック兄が言われている理由をこの際考えるのも必要かもしれない。) 

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