2016年11月24日木曜日

イエス様の御人格そのものが私たちのものとされる

11月にしては珍しい雪、小降りになったところで

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)

 「わたしは、あなたがたに平安を残します。」は大切です。しかし、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」はもっと大切です。加えられたことば「わたしの平安」とは測り知れない贈り物の驚異を語っています。単に「神との平安(ローマ5:1)」だけではないのです。キリストの十字架の血潮によって神との平安をいただき、私たちがキリストを通して持つ信仰によって義と認められます。

 しかし、私たちはこのようにして和解にあずかり、憎しみと隔たりであった存在に終止符が打たれて後、イエス様はご自身の宝物から私たちのために贈り物を与えられます。そして、これはまさしくご自身のものであるという特別な素晴らしい価値あるものです。私たちは、与え主自身の持ち物であった贈り物をどのようにその価値を推し量ることができるでしょうか。

 私たちはその贈り物がどんなに親しい交わりの特別なしるしだと感じているでしょうか。他の人々に対して、私たちは自分が作ったり、購入したものをあげます。私たちが自分の特別な楽しみや使っているものを与えるのは、大変親しい人に対してするだけです。だから、イエス様は作られた平安や購入された平安だけでなく、ご自身の平安そのものにあずからせてくださるのです。神的な、永遠の、理解を超えた平安を、それはご自身の心の中に神様として備わっていて、人としてのイエス様のいのちを通して驚くべき平安をもって輝いているのです。だから、それが「人のすべての考えにまさる神の平安」であっても、不思議ではありません。

あなたの支配は完璧で平安です
私の平安でなくあなたの平安です
終わることのない流れ
なぜならその泉はあなたの心ですから
おお 知られざる深み!
あなたは あなた自身のものから 与えて下さいます
あなたから 注ぎ出て 私を 満たして下さいます
「いくさの声(出エジプト32:17)」は過ぎ去りました
神の平安は王座にあり
まがうことのない支配とともに統治されます
 
 昨日、家庭集会で証して下さった方の奥様には2013年4月24日に同じように35分ほどで証していただいている。奥様が先に信仰を持たれたのだが、その奥様が自らの信仰の覚醒となったことがら、ターニングポイントとなったことを次のように言っておられる。今日のハヴァガルの学びとまたベック兄のことが触れられていたので聞き書きを載せさせていただく。

 「1980年の、私は、9月か10月ごろに導かれるようになったんですけど、ちょうど1980年の8月、ベック兄の娘さんのリンデさんが召天されて間もなかった時期だったんですけど、20歳で癌の病を信仰によって受けとめ、苦しい中にも、また希望と平安に満たされて、闘病生活を送られた話や、天国へ召されていったことを話して下さいました。

 私が今まで聞いたことのない話で、やはり出会ったことのない人たちだと思いました。目を輝かせて喜びに満ちた表情で話されたのは、ほんとうに印象的でした。一人でも吉祥寺キリスト集会に集うようになっていきました。ここは私が少し心配していた宗教団体ではないと、すぐにわかりました。むしろ、私の求めているものがここにあると思わされたのです。何か心のふるさとに帰ったような、気持ちが安らぐ思いでした。

わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。』ヨハネ14:27]『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』[ヨハネ7:37〜38]『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』[黙示3:20] 

 ベック兄は食事をするというところを、イエス様と交わりを持つようになると言われたのをメッセージで聞いたことがありますが、イエス様に心のとびらを開いて、主をお迎えした日から空しく孤独だった心の空洞は、イエス様のご愛で完全に満たされ、生きていく重荷から解放され、喜びの日々に変えられていきました。・・・[初めから11分過ぎの話])

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