このしもべは、自分の犯した罪を認めましたから、ご覧のとおり、きょう、ヨセフのすべての家に先立って、王さまを迎えに下ってまいりました。(2サムエル19:20)
そうです。私は罪を犯しました。私は自分が罪を犯したことを認めます。私がそのことを多く感ずるのか少なく感ずるのかは事実に影響ありません。私はそのことを知っています。すると次は何でしょうか。「ご覧のとおり、きょう、・・・先立って、王さまを迎えに下ってまいりました。」
そうです。私は罪を犯しました。私は自分が罪を犯したことを認めます。私がそのことを多く感ずるのか少なく感ずるのかは事実に影響ありません。私はそのことを知っています。すると次は何でしょうか。「ご覧のとおり、きょう、・・・先立って、王さまを迎えに下ってまいりました。」
まさしく、私は自らが罪を犯したことを知っているからこそ、イエス様のところにまいります。イエス様は罪人を招くために来られ、罪人を救うために来られました。それゆえ、主は私を招き、救うために来られました。「これが私の願いです(2サムエル23:5)」私は自らが罪を犯したことを知っているからこそ、私は「先ず第一に」まいることができますし、そうしなければなりません。何千人という人がやって来ます、しかしその心は自らの苦しさを覚えているのです。
そのように、他の人を待たないで、整えて来るのでなく、先ず第一に赦されることを強く求めて、私はまいります。イエス様のところに来るのに人が変わることを待つ必要はありません。「先ず第一に」私が罪を犯したのは「私の主である王」に反抗するものだからです。私は主の召使でした。それゆえに私ははるかに大きな罪を犯したのです。
先ず第一に、私は大層赦されねばなりませんでしたが、すでに赦されているので、私はそれだけたくさん愛しますし、愛さねばなりません。つまり、悲しんでいる一人の罪人でさえ、近づくことを求め、遠くにいては平安を得ることはできません。「ですから」、また「今日私はまいりました」私は明日まで待つことをあえてせず、また待つことができませんでした。今宵まで待つ必要は全然ありません。(今すぐにまいりなさい!)
私はあなたのところに罪を携えまいります
私の数え切れない罪を
すべての罪はあなたの一度開かれた泉で
聖められるのです
私はそれらの罪を携えまいります 救い主様
あなたのところに すべてを携えて
罪の荷物は私にとって余りにも重いのです
私の数え切れない罪を
すべての罪はあなたの一度開かれた泉で
聖められるのです
私はそれらの罪を携えまいります 救い主様
あなたのところに すべてを携えて
罪の荷物は私にとって余りにも重いのです
※Godhold Beck(88)
2010年の元旦での西軽井沢国際福音センターでのベック兄のメッセージは 「死んでもいい」というタイトルだった。その時、ベック兄は自身の体の病をはじめ、内外に多くの難問を抱えておられた。そのことを知っている私たちは声を振り絞って語られる、いつにない長時間のメッセージに固唾をのんでお聞きした覚えがある。
死んでもいいとは、エステル記の4:16の「私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」というセリフによる。彼女はユダヤ人であったが、外国に住み、不思議な運命で王妃に召し入れられた。ある日、王は側近の進言を受け入れ、ユダヤ人皆殺しの命令を発する。王宮深く身を沈めているエステルに累は及ばないのだろうか。いやそれよりも前に、国内にいる同国人の運命は風前の灯火だ。ために、王妃は王に直接お目通りを願って、その命令を撤回すべく働きかけを決断する場面で発せられたことばである。
先頃、私の古いブログ『泉あるところⅠ』を見ていたら、2009年の3月24日の火曜日の学び 「死んでもいい」が三回に分け、私の要約でまとめられている記事を見つけた。自分で作成しブログにまでしておきながら、すっかり忘れていた。その末尾に「結局これらの人々(モーセ、ルツ、ダニエルの三人の友、ダニエル、エステル、バプテスマのヨハネ、パウロ)はみな自分の命を失う備えを持っていた。それは命を粗末にすることを意味せず、失われた者が救われるため、信ずる者が新しく造り変えられて霊的に成長するために生きたのだ。私たちも主のご栄光だけが大切という態度を毎日取ることができたらどんなに幸せであろうか。」と記されてあった。
考えてみると、ベック兄は必要あって、2010年の元旦の冒頭にこのメッセージを再発掘され採用されたのである。収録されたものと自身のその8ヵ月前のブログ記事を比較してみて分かったことだが、それは決して8ヵ月前のメッセージの繰り返しだけではなかった。より深化されたベック兄の憂いの情が切々と語られていた。それはまさしく昨日ご紹介したアレクサンダーの長編詩の延長線上にある心情である。もう一度、あの原点に返りたいと日々思わされている今日この頃である。)
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