2016年11月10日木曜日

思い起こすことによって引き上げられる

私の神よ。私のたましいは御前に絶望しています。(詩篇42:6)

 あなたがこう言う時はただちに「それゆえ、(ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から)私はあなたを思い起こします(詩篇42:6後半)。 」と付け加えるべきです。そしてそれから何があるでしょうか。主を思い出すことから何が生ずるのでしょうか。「 私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します(詩篇63:5)。」

 これよりももっと素敵な満ちた約束が何かあるでしょうか。私たちの心からする願いは豊かなる満足と賛美の喜びあふれる力となって実現しました。しかし、愛し待ち望む心にとってもっと素敵な心ときめく約束がまだあります。だから、今晩あなたは益のない黙想や追憶をやめ、ベッドで主を思い出すなら、主はご自身のことばを守り、あなたを迎えて下さるでしょう。なぜなら、主は「あなたは迎えてくださいます。(喜んで正義を行なう者、)あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を(イザヤ64:5)。」とおっしゃらなかったでしょうか。

 暗黒はまことに主の御翼の陰となります。なぜなら、あなたの弱くはあるが、御霊が与えられた記憶は、主の真の生き生きとした臨在によって待たれているからです。なぜなら「主は言われ、そのことをなさらないでしょうか」今晩、私たちのたましいからの願いが「あなたの御名、あなたの呼び名を慕う(イザヤ26:8)」ように祈りましょう 

おお 感謝の日の光 
誰がそれを知っているでしょうか
もっとも陰鬱な日々の後に 
突然起こってくる明るさは
災難についての考えを 
後に変えるでしょう
気持ちの暖かくなる記憶の最愛の光のために
そうであるなら 
その素晴らしい賛美の覚え書きの一つに
先んじなければなりません 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-10-lifted-by-way-of-remembrance/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97479です。

※Godhold Beck(80)
 再び、2007年の6月17日にドイツ・アイドリンゲンでドイツの方に語られたメッセージの日本語訳である。訳者は前回と同じくH氏である。
[1]
 去る五旬節にアイドリンゲンで行われた若者の集いで、二つの文章が引用されました。まず、最初の文章は次のものです。

「イエス様は真実なお方です。役に立たない者の人生に対しても、イエス様は真実を尽くされます。イエス様は、私たちが知っていると思っているお方とはまったく違ったお方であり、私たちが勝手に望んでいるのとはまったく違ったお方です。主はみこころのままに、あなたの人生に介入されます。」(ハインツ・スピンドラー)

 先週の日曜日にも、ここアイドリンゲンでお話したように、私たちの主は、私たちとは「まったく違ったお方」です。私たちが苦しい逆境を乗り越えるには、ただイエス様からの新しい啓示だけが役に立ちます。なぜなら、主の中にのみ、光といのちがあるからです。

 聖霊にあふれておられたイエス様は、いつもご自分の考えを否定なさいました。「わたしはどうでもよい。父である神よ。あなた様は何をお望みですか。わたしは何を語り、何をするべきでしょうか。わたしの思いではなく、わたしの判断ではなく、あなた様のみこころ、あなた様の判断だけがなりますように。」

 主だけが、すべての決定権をお持ちです。

 イエス様は目立たない存在でおられたかったのです。十字架の意味するところは、自分の思いや感情を十字架につけてしまうことです。日々自分の思いや感情を十字架の下に持っていかなければなりません。主だけが私たちの頭(かしら)として、すべての決定権をお持ちです。

引用者註 今でこそこのような聖書の心髄をベック兄をとおして知るようになったが、ベック兄のメッセージをお聞きしたり、集会に出席する前は、自己の延長上に神様がいたので、神様と自分の間には何ら矛盾はなかったように思う。振り返ると、教会時代の自分は確かに救い主によって罪赦された者としての信仰は与えられていたが、それだけ罪・十字架の意味を生半可にしか受け取っていなかったように思う。) 

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