ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。(詩篇68:19)
ちょっとそれらを慎重に考えなさい(それらはかなり多すぎて全部のことを一瞬のうちに考えられないでしょうが)私たちは実際どれだけ求めたでしょうか。貧しき小さな主張さえも決して何千というそれらに耐えるようには決してもたらされなかったからです。初めから始めると、私たちは確かに世の始まる前にキリスト・イエスにある私たちを主が選ばれ、そして御子の似姿に一致するようにあらかじめ定めるようには求めませんでした。それから確かに私たちを主の恵みによって召してくださいとも求めませんでした。なぜなら、その召し以前では私たちは願うことができず、召しを求める思いはこれっぽっちもなかったでしょう。
その時、誰が私たちに祈ること、そして私たちの全く堕落し罪深い心に主を求める思いのいくらかでも持たせたのでしょうか。私たちの最初の祈りを振り返って見なさい。主はそれらの祈りを聞き入れられないことが少しでもありましたか。私たちは主が私たちのためになし得ることをいや全くどれだけ知っていましたか。
主は私たちの前に祈りの新しい展望を広げて、つまり私たちにもっとたくさんの恵みを求めるように恵みを、そしてさらに信仰を請い求めるように信仰を、祈りに答えて下さいませんでしたか。そしてこれは今も継続しています。主が私たちに喜びを運び、主ご自身の宮で喜んでいる時はとこしえに続くでしょう。その時まで私たちはキリスト・イエスにある栄光のそれらの豊かさについて理解しないでしょう。その豊かさの中から主は絶えず今も私たちのすべての必要を満たすために注いで下さっているのです。
神に賛美あれ
渇ける地を 神は和らげ
滅びを 救われる
洪水は 主の御声で 引き上げ
地は その答えを 喜ぶ
神に賛美あれ
決して終わることのない 歓声が
主の気前の良い愛の この新しいしるしのために
誰が洪水を 干上がらすように 命令するのか
集められる水が 我先にと走る
大喜びの叫び 一つとなった大洪水のような歌で 飛び跳ね
神に賛美あれ
渇ける地を 神は和らげ
滅びを 救われる
洪水は 主の御声で 引き上げ
地は その答えを 喜ぶ
神に賛美あれ
決して終わることのない 歓声が
主の気前の良い愛の この新しいしるしのために
誰が洪水を 干上がらすように 命令するのか
集められる水が 我先にと走る
大喜びの叫び 一つとなった大洪水のような歌で 飛び跳ね
神に賛美あれ
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-3-all-for-me/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97502です。
※Godhold Beck(103)
聖霊の人格と働き[5]
千九百何十年前の初めての五旬節の時、ペテロは次のようなことを宣べ伝えたのです。使徒行伝の2章ですけども、2章の38節です。「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」ある意味で理解しにくいことばです。間違って解釈しようと思えば簡単にできるんです。このような言葉に基づいてカソリック教会は洗礼を通してのみ救われると言うようになっています。
ここで二つの条件について書かれています。それから、二つの賜物についても書かれています。条件とは「悔い改め」と「洗礼」です。二つの賜物は「赦し」と「聖霊」です。初め(て)の条件は悔い改めることです。「悔い改める」とはいったいどういうことなのでありましょうか。
一口で言いますと、趣味が全く変わるということです。以前には罪を愛していたけど、今はそれを嫌うようになった。罪に対する考え方は変わります。未信者は罪を犯しても誰もわからなければ、つかまえられなければ、良かったじゃないか、皆やってるじゃないか、という気持ちなんです。けども、イエス様を知るようになった人は、確かに罪を犯すでしょう。けど、平気な顔をすることができない、やっぱり、喜びがなくなる。心の平安がなくなります。それから以前にはこの世は、自分にとって魅力だった。今はこの世の快楽は自分を惹かなくなった。もう興味がない。何をやっても、どうせ心が満たされないと、わかるようになったからです。
以前にはイエス様を信ずるようになるということが恐れだった。今はイエス様のものであるということが無上の喜びです。イエス様は私のものであり、私はイエス様のものですと、言う知識こそが絶えざる喜びの源です。あるいは、以前にはあれこれ努力して自分のものとしようとしたけど、今は追い求めるのはイエス様だけです。何があってもイエス様をより良く知りたいという切なる(聞き取れず)軽蔑していたものが一番尊いものになってしまった。このように趣味の変化を経験した人が初めてまことの悔い改めを(聞き取れず)と聖書は言っているのです。
二つ目の条件は「洗礼」です。他の言葉で言いますと、自分の信仰の告白が必要であるということなんです。形式的に洗礼を受けるともちろん役に立たないことですし、主の望まないことです。けども、自分の信仰の告白として、水のバプテスマを受けると、祝福があります。「洗礼」は心の信仰のあらわれであるべきです。自分の信仰の告白です。救われている人は、どうしてもまだ救いにあずかっていない人々に信仰を告白しなければなりません。
ある人は、もう十年間、あの会社に勤めているけど、私はイエス様を信ずることはまだ誰も気がついていないと誇って言ったことがあるんです。それはおかしい話なんです(笑い)結局、どうして会社に行くんですか。もちろん、生活するために金が必要です。けど、そのためだけ行けばおかしい。やっぱりイエス様の証し人として、イエス様御自身の運ぶ物として会社へ行かないと良くない。そして他の人々の幸せのがんばることによって、束縛から解放されます。不思議な力が働くようになります。結局、私たちは用いられるために、他の人々の永遠の幸せのために救われたのだと、聖書ははっきり言っています。ですから、自分の信仰を公に証しなさいと聖書は言っています。そして、一つの手段とは洗礼を受けることです。たとえば重病人だって洗礼を受けようと思っても出来ません。けども神はそのようなことをもちろん望みません。洗礼を受けないで天国へ行く人は一杯います。洗礼を受けても地獄へ行く人も一杯いる(笑い)。
洗礼、水のバプテスマとは結局救いと関係のないことと聖書ははっきり言っています。今のキリスト教の絶対に認めたくない事実です。今のキリスト教は、はっきり洗礼は救いと関係があるものです、と言います。絶対に離れません。カソリック教会は前に言いましたように、洗礼を受けないと絶対に救われませんと言います。プロテスタントの教会は洗礼を受けないと聖餐式にあずかってはいかんよ、キリスト者として認められませんと、平気で言う。全く非聖書的です。結局、今のキリスト教は、洗礼は救いと関係のあるものだと言うのです。聖書は全く違うことを言っています。
今朝、一人の兄弟はロマ書6章から一ヵ所を引用して下さったんですけど、その中でバプテスマということば何回も出てきたんですけど、バプテスマとは水の洗礼ではない、イエス様のまことの救いです。これを区別しないと簡単に間違った方向に行ってしまいます。バプテスマ、洗礼ということば、よーく聖書の中に出て来ますけど、98%くらいは水のバプテスマと関係のない意味なのです。「イエス様の救い」を意味しているだけなんです。
自分の信仰を告白するようにロマ書10章の9節10節に「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」水のバプテスマとは一つの告白に過ぎません。自分の信仰を表わすための一つの手段に過ぎません。
イエス様を信じ受け入れるということは、自分の罪を認め、告白して憎み、罪から離れ、そしてイエス様の救いのわざを信じ、感謝することです。あなたは悔い改めて罪を赦しをいただく、また、世人に信仰を告白したなのでしょうか。もし、そうなら罪の赦しと御霊の賜物をいただいていると信ずることができます。理性でつかまなくても、何も感じなくても、そうなんです。聖霊は信ずる者に与えられると聖書ははっきりと言っているのです。信ずることとは何でしょうか。
引用者註:ベック兄の日本語の知識に時々びっくりさせられる。この箇所で「世人」と言う言葉が使われているが、もちろん「よびと」と言っておられる。日本語では「せじん」と言うが、何となく「よびと」が馴染んで来るから不思議だ。確かに「せじん」は「よびと」に違いない。)
※Godhold Beck(103)
聖霊の人格と働き[5]
千九百何十年前の初めての五旬節の時、ペテロは次のようなことを宣べ伝えたのです。使徒行伝の2章ですけども、2章の38節です。「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」ある意味で理解しにくいことばです。間違って解釈しようと思えば簡単にできるんです。このような言葉に基づいてカソリック教会は洗礼を通してのみ救われると言うようになっています。
ここで二つの条件について書かれています。それから、二つの賜物についても書かれています。条件とは「悔い改め」と「洗礼」です。二つの賜物は「赦し」と「聖霊」です。初め(て)の条件は悔い改めることです。「悔い改める」とはいったいどういうことなのでありましょうか。
一口で言いますと、趣味が全く変わるということです。以前には罪を愛していたけど、今はそれを嫌うようになった。罪に対する考え方は変わります。未信者は罪を犯しても誰もわからなければ、つかまえられなければ、良かったじゃないか、皆やってるじゃないか、という気持ちなんです。けども、イエス様を知るようになった人は、確かに罪を犯すでしょう。けど、平気な顔をすることができない、やっぱり、喜びがなくなる。心の平安がなくなります。それから以前にはこの世は、自分にとって魅力だった。今はこの世の快楽は自分を惹かなくなった。もう興味がない。何をやっても、どうせ心が満たされないと、わかるようになったからです。
以前にはイエス様を信ずるようになるということが恐れだった。今はイエス様のものであるということが無上の喜びです。イエス様は私のものであり、私はイエス様のものですと、言う知識こそが絶えざる喜びの源です。あるいは、以前にはあれこれ努力して自分のものとしようとしたけど、今は追い求めるのはイエス様だけです。何があってもイエス様をより良く知りたいという切なる(聞き取れず)軽蔑していたものが一番尊いものになってしまった。このように趣味の変化を経験した人が初めてまことの悔い改めを(聞き取れず)と聖書は言っているのです。
二つ目の条件は「洗礼」です。他の言葉で言いますと、自分の信仰の告白が必要であるということなんです。形式的に洗礼を受けるともちろん役に立たないことですし、主の望まないことです。けども、自分の信仰の告白として、水のバプテスマを受けると、祝福があります。「洗礼」は心の信仰のあらわれであるべきです。自分の信仰の告白です。救われている人は、どうしてもまだ救いにあずかっていない人々に信仰を告白しなければなりません。
ある人は、もう十年間、あの会社に勤めているけど、私はイエス様を信ずることはまだ誰も気がついていないと誇って言ったことがあるんです。それはおかしい話なんです(笑い)結局、どうして会社に行くんですか。もちろん、生活するために金が必要です。けど、そのためだけ行けばおかしい。やっぱりイエス様の証し人として、イエス様御自身の運ぶ物として会社へ行かないと良くない。そして他の人々の幸せのがんばることによって、束縛から解放されます。不思議な力が働くようになります。結局、私たちは用いられるために、他の人々の永遠の幸せのために救われたのだと、聖書ははっきり言っています。ですから、自分の信仰を公に証しなさいと聖書は言っています。そして、一つの手段とは洗礼を受けることです。たとえば重病人だって洗礼を受けようと思っても出来ません。けども神はそのようなことをもちろん望みません。洗礼を受けないで天国へ行く人は一杯います。洗礼を受けても地獄へ行く人も一杯いる(笑い)。
洗礼、水のバプテスマとは結局救いと関係のないことと聖書ははっきり言っています。今のキリスト教の絶対に認めたくない事実です。今のキリスト教は、はっきり洗礼は救いと関係があるものです、と言います。絶対に離れません。カソリック教会は前に言いましたように、洗礼を受けないと絶対に救われませんと言います。プロテスタントの教会は洗礼を受けないと聖餐式にあずかってはいかんよ、キリスト者として認められませんと、平気で言う。全く非聖書的です。結局、今のキリスト教は、洗礼は救いと関係のあるものだと言うのです。聖書は全く違うことを言っています。
今朝、一人の兄弟はロマ書6章から一ヵ所を引用して下さったんですけど、その中でバプテスマということば何回も出てきたんですけど、バプテスマとは水の洗礼ではない、イエス様のまことの救いです。これを区別しないと簡単に間違った方向に行ってしまいます。バプテスマ、洗礼ということば、よーく聖書の中に出て来ますけど、98%くらいは水のバプテスマと関係のない意味なのです。「イエス様の救い」を意味しているだけなんです。
自分の信仰を告白するようにロマ書10章の9節10節に「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」水のバプテスマとは一つの告白に過ぎません。自分の信仰を表わすための一つの手段に過ぎません。
イエス様を信じ受け入れるということは、自分の罪を認め、告白して憎み、罪から離れ、そしてイエス様の救いのわざを信じ、感謝することです。あなたは悔い改めて罪を赦しをいただく、また、世人に信仰を告白したなのでしょうか。もし、そうなら罪の赦しと御霊の賜物をいただいていると信ずることができます。理性でつかまなくても、何も感じなくても、そうなんです。聖霊は信ずる者に与えられると聖書ははっきりと言っているのです。信ずることとは何でしょうか。
引用者註:ベック兄の日本語の知識に時々びっくりさせられる。この箇所で「世人」と言う言葉が使われているが、もちろん「よびと」と言っておられる。日本語では「せじん」と言うが、何となく「よびと」が馴染んで来るから不思議だ。確かに「せじん」は「よびと」に違いない。)
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