あなたがたは、かねてから、ダビデを自分たちの王とすることを願っていたが、今、それをしなさい。(2サムエル3:17〜18)
他の何らかの王の束縛は日々ますます激しかったので、当然であろう。私たちの忠誠を待っていたまことの王の恵みと威光を私たちがまさにおぼろげながらも垣間見るのも当然だ。私たちは先ず不安気にまた漠然と何かを(それが何かほとんど知らなかったが)求めていたに過ぎない。次に単なるあらゆる民の願いだけでなく、私たち自身の願いであったある方を求めていた。
しかし、私たちはその地点にまで到達していなかった。私たちは主による絶対的な支配の心備えがなかった。と言うのは、私たちは以前の暴君の意志を愛し行っていたからである。私たちは偉大な「今」に直面していた。「 今、それをしなさい。」主は忠誠を強制なさらない。主はじっと待たれるだけだ。
私たち自身の個別の愛や忠誠の冠は私たち自身の手によって差し出されねばならぬ。私たちがそうせねばならないのだ。いつか? おお、今だ。今先ず神聖な心を明け渡し、次に開かれた誤りなき生活を告白し、自分自身を私たちの主権者、統治者としての主に明け渡そう。これがなされる時、私たちの前にはどんな勝利と平和の栄光ある生活が開かれることか。これは将来も過去と同じようになってしまうのではないかという私たちの恐れ不安をなんと(みごとに)解消してくれることか。( What a silencing of our fears lest the time to come should nevertheless be as the time past!)
しかし、私たちはその地点にまで到達していなかった。私たちは主による絶対的な支配の心備えがなかった。と言うのは、私たちは以前の暴君の意志を愛し行っていたからである。私たちは偉大な「今」に直面していた。「 今、それをしなさい。」主は忠誠を強制なさらない。主はじっと待たれるだけだ。
私たち自身の個別の愛や忠誠の冠は私たち自身の手によって差し出されねばならぬ。私たちがそうせねばならないのだ。いつか? おお、今だ。今先ず神聖な心を明け渡し、次に開かれた誤りなき生活を告白し、自分自身を私たちの主権者、統治者としての主に明け渡そう。これがなされる時、私たちの前にはどんな勝利と平和の栄光ある生活が開かれることか。これは将来も過去と同じようになってしまうのではないかという私たちの恐れ不安をなんと(みごとに)解消してくれることか。( What a silencing of our fears lest the time to come should nevertheless be as the time past!)
神様の「今」は あなたの耳に鳴り響いています
おお 心に届かせましょう
あなたに 分かつように 命令されるのは
罪深さだけでなく あなたの義も そうです
汚いボロ着は 全部捨てられねばならないのと 同じように
そして ただ罪なきイエス様の 尊い死だけが
あなたの弁護と ならねばなりません
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-29-pledge-allegiance/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97528です。サムエル記の微妙なところを引用しながら、ハヴァガルははるかに私たちの主イエス様への忠誠を重ね合わせているようです。訳出は困難を極めました。特に最後のフレーズはそうでした。ために英文を併記しました。引き続き読者のご指導をお願いします。12/31追記 下記の訳がコメント欄にある通り、投稿されましたので、拙訳をそのとおり訂正しました。
※Godhold Beck(129)
『聖書とは何か』第四部[5]
聖書の中に書かれている一つ一つのことばは本当に神のことばなのでしょうか。それとも一部分は神のことばで、他の部分は人間のことばというふうに混ざり合っているのでしょうか。残念ながら今日の大部分の神学校で教えられている事柄がそういうものです。すなわち、ちょうど混合物の中にふくまれている金のように、神のみことばも人間のことばの混合物の中にふくまれているという考え方です。
しかし、もしもそうだとするならば、どれが神のことばで、どれが人間のことばなのかを判断するのは一体誰なのでしょうか、という疑問が起こって来ます。両者を区別する権威はどこにあるのでしょうか。神のことばと人間のことばを正確に区別することはもっとも大切なことになるでしょう。少しでも間違った判断をするならばそれは悲劇的なことになるでしょう。すなわち、神が語られたことを人間が語ったと言ったり、その逆に人間のことばを神のことばだと言ったりすることはまことに悲劇的と言わざるを得ません。まちがった判断によって人間が永遠の滅びに行くこともあることを考えると、それはとんでもないことであると言わざるを得ません。
一言で言いますと被造物であるちっぽけな人間はこれほど重大なことを判断する能力を持っていないということです。確かに聖書の中には神のことばがふくまれていると多くの人は言いますが、そのようなことは確固たる土台とはなり得ません。そういう人々は結局はっきりとした確信を持てなくなってしまいます。そういう人々は聖書を信じているかも知れませんが、みことばの何たるかを知らないのです。これこそ現代人の絶望のもとです。また、これは多くの牧師の問題でもあります。
彼らはどれが神のことばで、どれが人間のことばであるかを区別できないために、人を導くことができないのです。医者が患者に薬を間違えて死なせるよりも、はるかに恐ろしい悲劇は神のことばと人間のことばを間違えて判断し教えることです。多くの教会で牧師は確かに福音を語り、ただイエス様によってのみ救いが成就されると言われるのですが、聖書のことばがまことに神のみことばであり、信頼するに足るものであることを伝えることができなければ、語られた福音も十分な効力を発揮することができません。聖書全体を神のみことばとして受け取る者だけが確信と安らぎと支えを持つことができるのです。
人は聖書を全部神のみことばとして持つか、さもなければ全然持たないかのどちらかです。すなわち人は聖書を神のことばとして完全に認識し、信仰と人生の土台を見出すか、さもなければ、聖書の要求を現代人はとても信じられないこととして退け、聖書全体を失うかのどちらかです。
わかりやすい一例を挙げてこのことを説明してみましょう。列車で橋を渡れば、すぐ目的地にたどり着くことがわかっているとします。もしもその橋が頑丈な橋であれば、乗客はみな安心して乗りますが、その橋が危ないところもあるということが分かれば、誰もその列車に乗ってその橋を渡ろうとはしないでしょう。聖書の場合も同じようなことが言えるのではないでしょうか。つまり、聖書のある部分は確かで、別の部分は不確かであるとするならば、結果的には聖書全体が不確かなものとなります。
引用者註:憂国の情ということばがありますが、ベック兄の今日のくだりは聞き書きではうまく伝わらない激情があります。それは聖書を全面的に神のみことばとして認めないところに、現代人の絶望の根拠があるという診断であり、あらゆる牧師たちの足もとを襲っている不信の罪の指摘です。)
※Godhold Beck(129)
『聖書とは何か』第四部[5]
聖書の中に書かれている一つ一つのことばは本当に神のことばなのでしょうか。それとも一部分は神のことばで、他の部分は人間のことばというふうに混ざり合っているのでしょうか。残念ながら今日の大部分の神学校で教えられている事柄がそういうものです。すなわち、ちょうど混合物の中にふくまれている金のように、神のみことばも人間のことばの混合物の中にふくまれているという考え方です。
しかし、もしもそうだとするならば、どれが神のことばで、どれが人間のことばなのかを判断するのは一体誰なのでしょうか、という疑問が起こって来ます。両者を区別する権威はどこにあるのでしょうか。神のことばと人間のことばを正確に区別することはもっとも大切なことになるでしょう。少しでも間違った判断をするならばそれは悲劇的なことになるでしょう。すなわち、神が語られたことを人間が語ったと言ったり、その逆に人間のことばを神のことばだと言ったりすることはまことに悲劇的と言わざるを得ません。まちがった判断によって人間が永遠の滅びに行くこともあることを考えると、それはとんでもないことであると言わざるを得ません。
一言で言いますと被造物であるちっぽけな人間はこれほど重大なことを判断する能力を持っていないということです。確かに聖書の中には神のことばがふくまれていると多くの人は言いますが、そのようなことは確固たる土台とはなり得ません。そういう人々は結局はっきりとした確信を持てなくなってしまいます。そういう人々は聖書を信じているかも知れませんが、みことばの何たるかを知らないのです。これこそ現代人の絶望のもとです。また、これは多くの牧師の問題でもあります。
彼らはどれが神のことばで、どれが人間のことばであるかを区別できないために、人を導くことができないのです。医者が患者に薬を間違えて死なせるよりも、はるかに恐ろしい悲劇は神のことばと人間のことばを間違えて判断し教えることです。多くの教会で牧師は確かに福音を語り、ただイエス様によってのみ救いが成就されると言われるのですが、聖書のことばがまことに神のみことばであり、信頼するに足るものであることを伝えることができなければ、語られた福音も十分な効力を発揮することができません。聖書全体を神のみことばとして受け取る者だけが確信と安らぎと支えを持つことができるのです。
人は聖書を全部神のみことばとして持つか、さもなければ全然持たないかのどちらかです。すなわち人は聖書を神のことばとして完全に認識し、信仰と人生の土台を見出すか、さもなければ、聖書の要求を現代人はとても信じられないこととして退け、聖書全体を失うかのどちらかです。
わかりやすい一例を挙げてこのことを説明してみましょう。列車で橋を渡れば、すぐ目的地にたどり着くことがわかっているとします。もしもその橋が頑丈な橋であれば、乗客はみな安心して乗りますが、その橋が危ないところもあるということが分かれば、誰もその列車に乗ってその橋を渡ろうとはしないでしょう。聖書の場合も同じようなことが言えるのではないでしょうか。つまり、聖書のある部分は確かで、別の部分は不確かであるとするならば、結果的には聖書全体が不確かなものとなります。
引用者註:憂国の情ということばがありますが、ベック兄の今日のくだりは聞き書きではうまく伝わらない激情があります。それは聖書を全面的に神のみことばとして認めないところに、現代人の絶望の根拠があるという診断であり、あらゆる牧師たちの足もとを襲っている不信の罪の指摘です。)
お申し越しの訳は次のようでいかがでしょうか。「これは将来も過去と同じようになってしまうのではないかという私たちの恐れ不安をなんと(みごとに)解消してくれることでしょう」
返信削除ありがとうございます。
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