あなたは迎えてくださいます。・・・あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。(イザヤ64:5)
御霊によって紡がれた聖なる思い出が広がります。なぜなら、「私たちは」甘美で様々な啓示を示される「私たちの神、主の御名を誇る。(詩篇20:7)」からです。「私はあなたがくださった年々を」また「主のみわざを思い起こそう」「まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう(詩篇77:10、11)。」とあります。
すべてのものにまさって、「私たちはあなたの愛をほめたたえます(雅歌1:4)」私たちの父なる神様の永遠に変わらぬ愛を、「私たちの主、そして唯一の救い主のすべてにまさる偉大な愛」さらに、やさしくも、人の心を動かす私たちの慰め主の愛を。
このすべての愛の思い出は、主の大きな御業と「思い起こしなさい。(あなたがエジプトで奴隷であったことを。)そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを(申命記24:18)。」という証しの思い出をふくむことでしょう。
選ばれた愛 おお 死なれた愛
契約に印され 聖別された愛
すべての栄光 栄光 栄光 あれ
三位一体の神 あなたに
契約に印され 聖別された愛
すべての栄光 栄光 栄光 あれ
三位一体の神 あなたに
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-7-remember/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97506です。今日の箇所はハヴァガルの独壇場の感がする。彼女のうちにわき上がる数々の聖句が心に満ちあふれるようだからである。残念ながら最後の詩は適切に訳せていない。読者諸氏の訂正を是非お願いしたい。
※Godhold Beck(107)
『神のみことばは神のみことばである』[1]
今日から始まる学びの題は、「神のみことばは神のみことばである」という、まことに意味深い題です。すなわち、聖書はすべて神の霊感によるものです、と。
まず、聖書の霊感について学んでみることにしましょう。聖書は今日もっとも普及した書物であり、またもっとも近代的な書物です。疑いもなく聖書に惹かれる動きはどこの国でも進行しています。現代の悩みと混乱にあって多くの人々はしっかりとした支えを求め、聖書を読もうという飢え渇きを持っています。
なぜ、聖書が求められるのでしょうか。この書物の比類なき内容は何なのでしょうか。聖書はどういう点で他の書物とは比較にならないほどすぐれているのでしょうか。聖書にはどのような特別な地位が与えられているのでしょうか。私たちはこういう問いに従事したいと思います。すなわち、その問いとは全く簡単に表現すれば、次のように言えるでしょう。
「聖書とは何か」と。一体誰が私たちの問いに対する答えを与えることがお出来になるのでしょう。聖書よりも高い権威あるものだけが、この問いに対して有効な解明を私たちに与えることができるでしょう。しかし、それは一体どこに見出されるのでしょうか。私たちはすべての国を巡り歩き、すべての時代を探索しても、聖書より高い権威をこの地上で見出すことは出来ません。聖書よりも高い権威あるものとは何でしょうか。私たちのちっぽけな人間の理解力がそれなのでしょうか。いいえ、決して、決してそんなことはありません。
人間の理解力というちっぽけなもので、そんなに大きなものを考えるなら、それは全宇宙を顕微鏡の下に置こうとするのと同じほど愚かなことでしょう。私たちに残されているただ一つの道は「聖書とは何か」を知ろうとするならば、聖書そのものに問わなければならないのです。したがって、私たちは「聖書とは何か」という問いを次のように言い換えることができるはずです。
聖書そのものは何と言っているのか。聖書はどのような要求をするのか。この問いについて、私たちは聖書に語らせたいと思います。しかし、聖書はどなたにでも語るのでしょうか。はっきりと言えることは、聖書を信じたいと思っている人にははっきりと語ってくれる聖書も、信じたくない人には語ってくれない、ということです。聖書に対して心を開いている人は聞くことができ、理解することができますが、心を開いていない人には意味のないものに終わってしまいます。マタイ伝の13章の11節から13節までお読み致します。
「イエスは答えて言われた。『あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。』」
と、あります。主イエス様でさえ、聞く備えのある弟子たちに話す場合と、聞く備えのないパリサイ人たちに話す場合とでは、話し方を変えておられました。すなわち、主は弟子たちにお話しになる時には、たいせつなことを直接お話しになったのに、パリサイ人たちに話す時には、譬え話でお話しになったのです。新しく生まれ変わっていない人に、聖書の奥義について語ることは全く空しい努力に終わります。
聖書の奥義は聖霊をとおしてのみ理解することが出来ますので、聖霊を持っていない人は聖書を理解することが出来ないのです。そのことをパウロは次のように証しています。コリント第一の手紙2章14節に
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
と。したがって、聖書の真理を知りたいと思うならば、次のことが前提条件としてどうしても必要です。ヨハネ伝3章3節に
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。
と、あります。それでは一体新しく生まれ変わるのはどのようにして可能なのでしょうか。同じくヨハネ伝3章16節に
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
と、主イエスは言っておられます。
そのことを切に望む者は新しく生まれ変わろうと思えば、だれでもこの瞬間に主イエスを自分の救い主として受け入れることができます。というのは、主イエスのうちにこそ主の流された血潮による罪の赦しがあるからです。エペソ書1章7節に
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
と、あります。
主イエスは切に望む人には誰に対しても永遠のいのちをお与えくださいます。主のみことばを真剣に受け取る者は、イエス様のみことばに基づいて新しく生まれ変わっていることを主に感謝することが許されています。信じる者は持ちます。すなわち、悔い改めた人は、罪の赦しを持ち、主イエスを受け入れた人は永遠のいのちを持つことができるのです。
引用者註:この録音はベック兄の書斎でなされたものと思われます。冒頭に「近代的な書物云々」ということばが出て来ますが、1960年代までまだ通用した日本人の考え方をよく吸収し得たドイツ人であるベック兄の特性が遺憾なく発揮されている言葉だだと感嘆させられます。一つ一つの日本語が十分こなされていて用いられている印象を持たせられるからです。昨日の火曜学び会でも証者は中学生の時に聖書を繙いたと言っておられました。すべての人を惹きつける聖書がどういう性質を持つのか、今日から数回のシリーズで考えていきたいと思います。なおこれはろばの子サーバーのベック兄暦年のメッセージ集の中の217番「聖書とは何か」の引用者による聞き書きであります。)
※Godhold Beck(107)
『神のみことばは神のみことばである』[1]
今日から始まる学びの題は、「神のみことばは神のみことばである」という、まことに意味深い題です。すなわち、聖書はすべて神の霊感によるものです、と。
まず、聖書の霊感について学んでみることにしましょう。聖書は今日もっとも普及した書物であり、またもっとも近代的な書物です。疑いもなく聖書に惹かれる動きはどこの国でも進行しています。現代の悩みと混乱にあって多くの人々はしっかりとした支えを求め、聖書を読もうという飢え渇きを持っています。
なぜ、聖書が求められるのでしょうか。この書物の比類なき内容は何なのでしょうか。聖書はどういう点で他の書物とは比較にならないほどすぐれているのでしょうか。聖書にはどのような特別な地位が与えられているのでしょうか。私たちはこういう問いに従事したいと思います。すなわち、その問いとは全く簡単に表現すれば、次のように言えるでしょう。
「聖書とは何か」と。一体誰が私たちの問いに対する答えを与えることがお出来になるのでしょう。聖書よりも高い権威あるものだけが、この問いに対して有効な解明を私たちに与えることができるでしょう。しかし、それは一体どこに見出されるのでしょうか。私たちはすべての国を巡り歩き、すべての時代を探索しても、聖書より高い権威をこの地上で見出すことは出来ません。聖書よりも高い権威あるものとは何でしょうか。私たちのちっぽけな人間の理解力がそれなのでしょうか。いいえ、決して、決してそんなことはありません。
人間の理解力というちっぽけなもので、そんなに大きなものを考えるなら、それは全宇宙を顕微鏡の下に置こうとするのと同じほど愚かなことでしょう。私たちに残されているただ一つの道は「聖書とは何か」を知ろうとするならば、聖書そのものに問わなければならないのです。したがって、私たちは「聖書とは何か」という問いを次のように言い換えることができるはずです。
聖書そのものは何と言っているのか。聖書はどのような要求をするのか。この問いについて、私たちは聖書に語らせたいと思います。しかし、聖書はどなたにでも語るのでしょうか。はっきりと言えることは、聖書を信じたいと思っている人にははっきりと語ってくれる聖書も、信じたくない人には語ってくれない、ということです。聖書に対して心を開いている人は聞くことができ、理解することができますが、心を開いていない人には意味のないものに終わってしまいます。マタイ伝の13章の11節から13節までお読み致します。
「イエスは答えて言われた。『あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。』」
と、あります。主イエス様でさえ、聞く備えのある弟子たちに話す場合と、聞く備えのないパリサイ人たちに話す場合とでは、話し方を変えておられました。すなわち、主は弟子たちにお話しになる時には、たいせつなことを直接お話しになったのに、パリサイ人たちに話す時には、譬え話でお話しになったのです。新しく生まれ変わっていない人に、聖書の奥義について語ることは全く空しい努力に終わります。
聖書の奥義は聖霊をとおしてのみ理解することが出来ますので、聖霊を持っていない人は聖書を理解することが出来ないのです。そのことをパウロは次のように証しています。コリント第一の手紙2章14節に
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
と。したがって、聖書の真理を知りたいと思うならば、次のことが前提条件としてどうしても必要です。ヨハネ伝3章3節に
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。
と、あります。それでは一体新しく生まれ変わるのはどのようにして可能なのでしょうか。同じくヨハネ伝3章16節に
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
と、主イエスは言っておられます。
そのことを切に望む者は新しく生まれ変わろうと思えば、だれでもこの瞬間に主イエスを自分の救い主として受け入れることができます。というのは、主イエスのうちにこそ主の流された血潮による罪の赦しがあるからです。エペソ書1章7節に
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
と、あります。
主イエスは切に望む人には誰に対しても永遠のいのちをお与えくださいます。主のみことばを真剣に受け取る者は、イエス様のみことばに基づいて新しく生まれ変わっていることを主に感謝することが許されています。信じる者は持ちます。すなわち、悔い改めた人は、罪の赦しを持ち、主イエスを受け入れた人は永遠のいのちを持つことができるのです。
引用者註:この録音はベック兄の書斎でなされたものと思われます。冒頭に「近代的な書物云々」ということばが出て来ますが、1960年代までまだ通用した日本人の考え方をよく吸収し得たドイツ人であるベック兄の特性が遺憾なく発揮されている言葉だだと感嘆させられます。一つ一つの日本語が十分こなされていて用いられている印象を持たせられるからです。昨日の火曜学び会でも証者は中学生の時に聖書を繙いたと言っておられました。すべての人を惹きつける聖書がどういう性質を持つのか、今日から数回のシリーズで考えていきたいと思います。なおこれはろばの子サーバーのベック兄暦年のメッセージ集の中の217番「聖書とは何か」の引用者による聞き書きであります。)
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