新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。(詩篇96:1)
私たちがまだ救われていない人々が救い主のところに来て欲しいと思うのは彼らのためだけではない。私たちの熱意はそれよりももっと強い源泉を持っているのです。私たちは私たちの主を愛しています。それゆえ私たちは主が正しく尊重されないことに耐えられないのです。私たちは主が全然考えられず誤解されていることに耐えられないのです。私たちにとり、主が感謝されず愛されもせず崇められもしないのは痛みです、まことに痛みです。主がなされたすべてが心をこめた感謝と愛に値しないと扱われ、主の偉大で血をもって贖われた救いが無視されているのは。主ご自身の愛された方のために、主ご自身の栄光のために、私たちは他の人たちがやって来て、その人たちもまた主を愛し、祝福し、ほめたたえるのを望んでいます。
あなたがたは私たちの弱々しい証しを疑うのですか
あなたがたはたとえ私たちを軽蔑しても来て見てください
ご自身で主のところに来て聞いて下さい
そうすればそのお方は主であることがわかるでしょう
あなたがたは主のうちに中心なるお方
真理そのものいのちそのものであるお方
終りなき疑いと争いの輝かしい解決を
見出すでしょう。
あなたがたはたとえ私たちを軽蔑しても来て見てください
ご自身で主のところに来て聞いて下さい
そうすればそのお方は主であることがわかるでしょう
あなたがたは主のうちに中心なるお方
真理そのものいのちそのものであるお方
終りなき疑いと争いの輝かしい解決を
見出すでしょう。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-21-a-higher-motive/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97520です。
※Godhold Beck(121)
『聖書とは何か』第三部[4]
今まで私たちは父なる神が語られたこと、次にイエス様が語られたこと、第三に聖霊が語られたことについて学びました。それからみことばの一体性、そしてまたみことばの内容について聖書から見て参りました。
次にみことばの結果について見てみることにしましょう。ことばは人格を持っているものをあらわすものであり、それによってその方の本質と意志を知ることができます。語り手が偉大であればあるほど、語られたことばの結果も大きなものとなります。主なる神が語られました。したがって、みことばは神ご自身の本質と意志のあらわれであり、語られたみことばの重さは大変なものであるに違いありません。父なる神はご自身の中におけるいのちそのものですとイエス様は私たちに証しています。ヨハネ伝5章26節に
それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
と、書いてあります。主なる神がいのちそのものなのであれば、神のみことばはいのちをもたらすに相違ありません。したがってイエス様のみことばも霊であり、いのちです。ヨハネ伝6章63節に
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
と、イエス様は言われたのです。そしてイエス様はご自身を信ずる者に生ける神の御霊を与えて下さいました。そして聖霊について次のように証しています。「いのちを与えるのは御霊です」と今読みました6章63節に書かれています。 したがって、私たちは聖書の中にものすごい力と作用を持ったものを見出すことができます。そしてこの書物の比類なき意義は他のあらゆる人間のことばは絶対にできないこと、すなわち、いのちをもたらすことがお出来になるということの中にあります。人間のことばはいのちを説明できますが、神のことばはいのちを与えることがお出来になります。
造られたものはすべて神のみことばによって成立しました。ヘブル書11章3節に
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
と、書いてあります。したがって、すべての被造物、また神によって造られた人間は神のことばのいのちの力を証明するものです。しかし、私たちが見ている被造物や私たちの体は過ぎ行くものであり、罪の支払う報酬、すなわち「死」を味わわなければなりません。神のみことばによって、再び新天新地があらわれ、その時、死ぬものが不死を着るのです。コリント第一の手紙15章53節に
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
と、あります。
しかし罪と死に特徴づけられた今の時代に神のみことばのいのちの力はどのようにしてあらわれてくるのでしょうか。エペソ書2章1節によると、すべての人間は罪と罪過の中に、生けるまことの神の前に死んでいるのです。しかし、神のみことばによってこの死んでいた者が生かされるようになり、新しいいのちを持つようになります。みことばの力について、ヘブル書4章12節13節に次のように書いています。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
と、あります。神のみことばは人間の罪の状態を明らかにします。みことばは真理ですから剣のように人間の心を刺し通します。私たちはみことばを通して、燃えるような神の目に出会い、主なる神が語られると私たちは沈黙しなければなりませんし、またサマリヤの女のように次のように言わざるを得ません。ヨハネ伝4章39節に
あの方は、私がしたこと全部を私に言った。
と。これこそ罪と罪人に対するみことばの結果であり、このみことばのゆえに、みことばを受け入れなかったすべての人の上に神のさばきが下されるのです。みことばによって生かされたいと思わない人々にとってみことばは永遠の死へと導くみことばとなります。ヨハネ伝12章48節にイエス様は次のように言われました。
わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
と。
引用者註:ベック兄のメッセージの特徴は極めて実際的であり、聖書のことばを真剣に受け止められるところにある。その辺が私のようないい加減な信者と異なるところである。このところで「みことばの結果」と言われているが、この用語こそその現れである。今日のところはみことばを受け入れない者の結果、神のさばきで終わっているが、もちろんさばきがすべてではない。明日はその続きである。)
※Godhold Beck(121)
『聖書とは何か』第三部[4]
今まで私たちは父なる神が語られたこと、次にイエス様が語られたこと、第三に聖霊が語られたことについて学びました。それからみことばの一体性、そしてまたみことばの内容について聖書から見て参りました。
次にみことばの結果について見てみることにしましょう。ことばは人格を持っているものをあらわすものであり、それによってその方の本質と意志を知ることができます。語り手が偉大であればあるほど、語られたことばの結果も大きなものとなります。主なる神が語られました。したがって、みことばは神ご自身の本質と意志のあらわれであり、語られたみことばの重さは大変なものであるに違いありません。父なる神はご自身の中におけるいのちそのものですとイエス様は私たちに証しています。ヨハネ伝5章26節に
それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
と、書いてあります。主なる神がいのちそのものなのであれば、神のみことばはいのちをもたらすに相違ありません。したがってイエス様のみことばも霊であり、いのちです。ヨハネ伝6章63節に
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
と、イエス様は言われたのです。そしてイエス様はご自身を信ずる者に生ける神の御霊を与えて下さいました。そして聖霊について次のように証しています。「いのちを与えるのは御霊です」と今読みました6章63節に書かれています。 したがって、私たちは聖書の中にものすごい力と作用を持ったものを見出すことができます。そしてこの書物の比類なき意義は他のあらゆる人間のことばは絶対にできないこと、すなわち、いのちをもたらすことがお出来になるということの中にあります。人間のことばはいのちを説明できますが、神のことばはいのちを与えることがお出来になります。
造られたものはすべて神のみことばによって成立しました。ヘブル書11章3節に
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
と、書いてあります。したがって、すべての被造物、また神によって造られた人間は神のことばのいのちの力を証明するものです。しかし、私たちが見ている被造物や私たちの体は過ぎ行くものであり、罪の支払う報酬、すなわち「死」を味わわなければなりません。神のみことばによって、再び新天新地があらわれ、その時、死ぬものが不死を着るのです。コリント第一の手紙15章53節に
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
と、あります。
しかし罪と死に特徴づけられた今の時代に神のみことばのいのちの力はどのようにしてあらわれてくるのでしょうか。エペソ書2章1節によると、すべての人間は罪と罪過の中に、生けるまことの神の前に死んでいるのです。しかし、神のみことばによってこの死んでいた者が生かされるようになり、新しいいのちを持つようになります。みことばの力について、ヘブル書4章12節13節に次のように書いています。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
と、あります。神のみことばは人間の罪の状態を明らかにします。みことばは真理ですから剣のように人間の心を刺し通します。私たちはみことばを通して、燃えるような神の目に出会い、主なる神が語られると私たちは沈黙しなければなりませんし、またサマリヤの女のように次のように言わざるを得ません。ヨハネ伝4章39節に
あの方は、私がしたこと全部を私に言った。
と。これこそ罪と罪人に対するみことばの結果であり、このみことばのゆえに、みことばを受け入れなかったすべての人の上に神のさばきが下されるのです。みことばによって生かされたいと思わない人々にとってみことばは永遠の死へと導くみことばとなります。ヨハネ伝12章48節にイエス様は次のように言われました。
わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
と。
引用者註:ベック兄のメッセージの特徴は極めて実際的であり、聖書のことばを真剣に受け止められるところにある。その辺が私のようないい加減な信者と異なるところである。このところで「みことばの結果」と言われているが、この用語こそその現れである。今日のところはみことばを受け入れない者の結果、神のさばきで終わっているが、もちろんさばきがすべてではない。明日はその続きである。)
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