2016年12月9日金曜日

住んだところで仕事をする

薄明に パリに戻りし 子見送り

彼らは(陶器師で、ネタイムとゲデラの住民であり、)王の仕事をするため、王とともにそこに住んだ。(1歴代誌4:23)

 「そこに!」全然あつらえ向きの場所でなく、王宮でも、王都でもなく、人が「植物と生け垣がある(1歴代誌4:23)」と期待していた最後の土地のあたりだ。なぜ彼らがそこにいたのかさえ明快でないように見える。なぜなら彼らは陶工であり、園丁ではなかったからである。このように私たちには単純な手労働の組み合わせが与えられ、人里離れたところで作業を続けた。しかし、彼らは王とともに住む住人であり、王のもとで仕事をしたのだ。

 私たちもまた、いかなるところであろうと、いたるところで王なる方とともにその方の仕事のために住んでいるのだ。私たちはこのために非常に不釣り合いな、また気に入らない場所にいることになるかもしれない。まわりには王なる方のお出ましが見られる機会がわずかしかない、文字どおり田舎の生活かもしれない。間には様々な垣があり、至る方向に障害があるかもしれない。その上、毎日の仕事のために手はあらゆる陶芸作りで目一杯であるかもしれない。

 どうでもいいことだ! 私たちをそこに置かれた王なる方はそこで私たちのところに来てともに住まわれるからだ。垣根は申し分ない。さもなければ王なる方は垣根をすぐに排除され、当然の結果として、私たちの道を隠すように見えるものは全く防御にならないといことにはならない。陶器に関して言えば、その理由は、まさしく正確には、王なる方が私たちの手に置くのがふさわしいと見られたことだ、それゆえ、今ではそれが「王なる方の仕事」なのだ。

今 私は 私の国に帰ります
そして あなた様に まみえ 
あなた様から 聞いたことを
伝えましょう。

そして 「来て 見てごらんなさい 」との 
あなた様の やさしい 呼びかけを 届けましょう

しかし 私の心 私の思いは とこしえに 
平和の君 あなた様のおそばで
王の安息のうちに住まわせていただきます。
あなた様のいます祝福された美しいやかたのうちに

 
Now I will turn to my own land, and tell
What I myself have seen and heard of Thee,
And give Thine own sweet message, "Come and see!”
And yet in heart and mind forever dwell
With Thee, my King of Peace, in loyal rest,
Within the fair pavilion of Thy presence blest.

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-9-dwelling-and-working/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97508です。「among plants and hedges[1歴代誌4:23]」は欽定訳のみで、現行聖書はこれに対して地名を具体的に当てている。最後の詩の部分は訳し方が正しくないと思うので原文も併記した。追記 読者より改訳をいただいたのでほぼ、それに置き換えた。

※Godhold Beck(109)

『神のみことばは神のみことばである』[3]

 それではこれから霊感のこれら三つの構造について、聖書に語ってもらいましょう。

 先ず、主なる神はみことばの発起人、すなわち著者です。このことについて、私たちは三つに分けて考えてみたいと思います。すなわち第一に、神が、父なる神が語られたこと。第二に、主イエスが語られたこと。第三に、聖霊が語られたことです。なぜならば、主なる神は唯一の神ですが、三つの異なった人格、すなわち父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊を持っているお方であるからです。

 「神のみことばは神のみことばである」という命題は何と当たり前のことでありましょう。しかし、今まで長い歴史の中でどれだけ多くの人たちが、この当たり前のこと、すなわち 「神のみことばは神のみことばである」という命題を否定するために、がんばったことでしょう。しかし、結局神のみことばの否定を徹底的に証明することはできませんでした。たとえば、ドイツで始まった聖書批判はA=Cではない、すなわち、神の語られたみことばと聖書に書かれたみことばは等しくないということを証明しようとしたのです。しかし、神はみことばの発起人、すなわち著者です。「神が語られた」これこそ、聖書が全く当然のこととして行う要求なのです。「神が語られた」と聖書が伝えている時、語っている者が本当に神であるかどうかを証明する必要は全然ありません。聖書は神が語られたことをそのまま私たちに伝えています。

 ですから、神のみことばは本当に神のみことばであるということを証明してもらいたいということは何という侮辱でしょうか。聖書は事実だけを宣べ伝えている書物です。「神が語られた」と聖書が言っていることはそのまま事実として妥当します。それを私たち人間が認めようが認めまいが、事実は事実なのです。神が語られたことは神の啓示です。それは上から与えられたものです。人間のことばは下から来たものであり、神のみことばは上から来たものです。一つのことばが同時に上からと下からと両方から来ることはあり得ません。神のことばと人間のことばとはその本質上全く違った性質のものです。

 「神が語られた」と聖書が言う時、それは聖書が私たちに伝えるみことばがその本質上人間のことばとは全く違っていることを私たちに証しています。「神が語られた」と聖書は言っていますが、その実例を幾つか聖書の中から見てみましょう。

 創世記から1章3節 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。6節 ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。9節 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。11節 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。14節 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。24節ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。 26節 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。29節 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。

 何回も何回も「神が仰せられた」「神は仰せられた」「神は仰せられた」「神は仰せられるとそのようになった」と書いてあります。2章から少し読みましょうか。

2章16節 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」18節 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」3章14節 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。22節 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

4章6節 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。9節 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。

6章13節 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。7章1節 主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。8章の15節 そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。21節 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。9章1節 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。8節 神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。

11章6節 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。12章7節 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。

引用者註:何と根気強い聖書の章節とみことばの引用であろうか。しかし、聖書が主体で、私たち人間は客体であると第二回のところで語られていたことを思い起こす時に私たちが徹底的な主の仰せを厳粛に聞かされる思いがする。読者はこれだけですでに創世記の1章から12章のアウトラインを十分つかむことができるであろう。なお、明日もベック兄による聖書の引用は続く。録音の中にはドアの開閉らしき音も聞こえる。新改訳聖書は1970年に陽の目を見る。したがって書斎で懸命に日本語を会得しながらこの話がなされたのはそれとほぼ同時期、40代のころのものであろうと推定する。)

0 件のコメント:

コメントを投稿