王は、われわれの身内だからだ。(2サムエル19:42)
「あなたのうちから、あなたの同胞の中から(申命記18:15)」起こされた預言者および人々の間から取られた「同族」である大祭司の内に、私たちはキリストの身内を見るだけでなく、神に選ばれた王のうちに同じ驚くべき関係が与えられているのです。「あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない(申命記17:15)。」
私たちは「兄弟」という全く完全で親愛ある考え方にふくまれるすべての表現を使い尽くしたとき、さらに「兄弟よりも親密な(箴言18:24)」方を認めるようにと導かれるのです。王なる方は大変な身内だから、イスラエルの部族が集まって「ご覧のとおり、私たちはあなたの骨肉です(1歴代誌11:1)。」と言ったように、私たちは、主のところに近づくことができます。主は「すべての点で」「兄弟たちと同じようになる(ヘブル2:17)」ほど親密であります。それは「われわれの身内(2サムエル19:42)」というほどであります。しかしその方は神様なのです。このことは考え抜く価値がないでしょうか。
おお 歌わせて下さい まさしく喜びのために あなたは私の王ですから
おお ほめあげさせて下さい 私の生きる限り あなたの愛と誠実を
おお ほめあげさせて下さい 私の生きる限り あなたの愛と誠実を
※Godhold Beck(126)
『聖書とは何か』第四部[2]
イエス・キリストは人間となった神のみことばです。主はその本質上、完全な神の御子であり、形式上はこの地上におられる間、完全な人の子なのです。ピリピ2:2〜7までお読み致します。
私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
と、書いてあります。聖書はことばが人となった、という事実を私たちに告げ知らせていますが、この大変な結果がどういうふうにしてなされたかは説明していません。ヨハネ伝1章14節に
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
と、ありますし、そして前に読みましたルカ伝1章35節、もう一回、お読み致します。
御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
と、書き記されています。「ことばは人となった。」「聖霊と処女マリヤをとおして生まれたのです」としか、書いていません。聖霊は神の創造的な力であり、マリヤという人間は受取人となり、生むために用いられた器となったのです。この転換はどのようにして行われたのかという私たちのあらゆる問いに対して、聖書はただ聖霊によってという答えを与えておられます。人の子・主イエスはしもべの形をお取りになりましたが、全く完全であり、すなわち私たち人間でありながら罪を知らないお方でした。主イエスの内には神のご性質が満ち満ちています。しかし、私たちが主イエスのうちに神を見ることができるために主は人の形を取ってくださったのです。
第二番目は文字となった神のみことばとしての聖書について考えたいと思いますが、聖書は文字となった神のみことばであり、聖霊の働きによってできあがりました。神のみことばは使徒と預言者をとおして語られ、また書かれた人間のことばになりました。聖書はしもべの形を取られた、すなわち人間のことばの形を取られた神のみことばです。聖書は人の子イエス・キリストと同じように完全で誤りがありません。聖書は内容的にも形式的にも完全です。
私たちが神の御子から人になったみことばへの転換の奇跡を問う時、聖書は聖霊によってというただ一つの説明として私たちにお語りくださいます。ちょうどそれと同じ答えを聖書が私たちに与えてくださるのは、私たちが文字となった神のみことばの奇跡を問う時です。すなわち、それは聖霊によるのですと。多くの人たちは何とかしてこの転換の奇跡を説明したいと思い、あらゆる可能な機械的な試みをしてきましたが、ちょうど先生が読み上げる文章を一字一字生徒らが書き写すのと同じように聖霊がみことばを使い使徒と預言者たちがこれを一言一言書き記したことではないかという解釈や学説もあります。しかし決してそうではありません。
創造主なる神は人間をロボットのようにお造りになったのではなく、自由意志をもった人格としてお造りになったからです。しかし、いくら考えても人間には説明がつかないので、聖書は単純に事実だけを述べて「聖霊によって」という表現を使っておられるのです。
引用者註:書かれた言葉である聖書の誕生と主イエス・キリストの誕生はともに不可思議なことであるが人間はいかようにも説明できない。それは聖霊によると神様は私たちに語られるのみだとベック兄は断言しておられる。それがいかにして説明できるか、科学者のごとくベック兄の聖書による説明は続く。明日は文字の発明による書き言葉による伝播が聖書に即して語られる。 )
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