2016年12月25日日曜日

不思議な

わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり・・・

その名は「不思議な」と呼ばれる。(イザヤ9:6)

 イエス様のこの他のすべての名前は名詞です。しかし、ここには形容詞の名前があります。だから私たちはその名前をそれ自身の名前としてだけでなく主のあらゆる他の名前の形容詞として用いることができます。そして私たちは主を知れば知るほど、また愛すれば愛するほど私たちはこのことを喜ぶことでしょう。 

 もし私たちがイエス様を我が救い主として知っているなら、私たちは主が不思議な救い主と全く確信することでしょう。そしてもし私たちが私たちの主であり救い主イエス様の恵みと知識において成長するなら私たちはますます年毎に、日毎に主がどんなに不思議な友、不思議な贈り物、不思議な大祭司、その他すべての不思議なお方であることを発見することでしょう。 

 あなたは不思議な景色を見たら、必ず真っ先に他の人々に見て欲しいと思わないでしょうか。そしてもしあなたが彼らを見に連れて行くことができないなら、そのことについて話し、その思いを伝えたくないでしょうか。そのように、私たちがまことにイエス様を見出したのは私たちが他の人々にどんなに不思議な救い主を見出したかを来て知ってもらいたいという一つの証しだと思います。

 イエス様がどんなお方であるか不思議です。天使でさえ神の御子を見て不思議に思ったに違いありません。天使は全員で小さな赤ちゃんとして飼葉おけに寝かせられている御子を礼拝しました。けれども私は彼らが「引き渡され、不法な者の手によって十字架につけて殺されるお方(使徒2:23)」を知っていたので、なおさら不思議に思ったに違いないと思います。彼らはその時、知識をやり過ごすキリストの愛に心底驚いたに違いありません。しかしキリストは彼らのために死なれずあなたのために死なれたのです。そうして「あなたの私への愛は、すばらしかった(2サムエル1:26)。」と言うでしょう。

 キリストがなされたすべてのことが不思議でした。イザヤは多くの人がびっくりすると言いました。そして私はあなたにそのことがどんなふうに正確に実現されているか知って欲しいです。マルコの最初の7章をご覧なさい。そうすれば彼らがキリストに驚いたり当惑したりしていることが五度にわたって記されていることがわかるでしょう。

 さらにキリストのことばは不思議以上でした。ルカの4章をご覧なさい。そうすれば、主を愛さなかった人々でもどんなに主のことばに驚き、びっくりし、当惑したかを知ることができます。もし私たちが今私たちに話されているやさしいことばに驚くなら、私たちが主の栄光の御座におられるキリストを見、主ご自身の声を聞く時どれほどはるかに驚くことでしょうか。

おお 救いの運び手 あなたは 驚くべき 主人を働かせ
漕ぎ手の考えを越える愛の啓示である あなたご自身だ
私たちはあなたを礼拝し あなたを誉め称え あなた一人に向かって 歌う 
私たちは あなたを 讃美し あなたに 告白する
私たちのやさしい主よ 王よ

O Bringer of Salvation, who wondrously host wrought,
Thyself the revelation of love beyond oar thought:
We worship Thee, we bless Thee, to Thee alone we sing;
We praise Thee, and confess Thee, our gracious Lord and King!

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-25-wonderful/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97524です。

※Godhold Beck(125)

『聖書とは何か』第四部[1]

 今まで大きく分けて二つのことについて考えて参りました。第一に主なる神が聖書の発起人・起草者すなわち著者そのお方であること、第二に神のことばが人間、すなわち使徒と預言者に与えられ、吹き込まれたことを見て来ました。そこで、最後に第三として使徒たちと預言者たちが与えられ受け取ったものをさらに伝えて行き宣べ伝え、書き伝えたことを見てみましょう。すなわち別のことばで表現しますと、第一に語られたみことば、第二に受け取られたみことばを見て来ましたが、今度は第三に書かれたみことばを見てみるわけです。

 人間は主なる神から受け取ったみことばを書き記した事実について考えてみましょう。主なる神は時々召された人たちにお語りになり、受け取った事柄をさらに宣べ伝えることを禁じました。そういう場合、私たちは神が語られたことばだけはわかりますが、主が何を語られたかはわかりません。たとえばダニエル書8章26節に
先に告げられた夕と朝の幻、それは真実である。しかし、あなたはこの幻を秘めておけ。これはまだ、多くの日の後のことだから。

と、あります。黙示録10章4節に
七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。

と、ありますし、コリント第二の手紙12章4節にパウロは次のように書き記したのです。
パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。

と、あります。 しかし、神のみことばすべてが受け取られ、語られ、また語ることがなかったならば、私たちは主なる神について何も知らず、聖書もなかったことでしょう。使徒と預言者はみことばを聖霊をとおして受け取っただけではなく、さらに聖霊を通してことばを宣べ伝えました。みことばの霊感は初めから終わりまで主なる神の御業です。神のみことばの伝播はしたがって神のみこころのあらわれであり、与えることまた受け取ることと同じように主の御心です。聖霊の働きを通して受け取られたみことばは、変わることなく語られたり書かれたりしたみことばになります。受け取られたみことばは神によるものであるなら、宣べ伝えられたみことばも神によるのです。

 そのことについて聖書は私たちに何と言っているのでありましょうか。神のみことばが人間に理解できるものとなるべきであるならば、主は人間のことばの形でお語りにならなければなりません。私は小さな子どもに私の言うことを分からせようと思うならば、子どもの話し方で語らなければなりません。しかし、私が語ることは私のことばであり、それがただ子どもの話の形になっているというだけです。私の話している事柄は私のことばであるに違いありません。霊感の奇跡の一つは語られた神のみことばが、語られたり書かれたりした人間のことばに変わることです。変圧器は高電圧から低電圧に電流を変えます。神のみことばは使徒と預言者を通して人間のことばに変えられました。

 神のみことばである聖書は内容的には完全な神のみことばであり、形式的には完全な人間のことばです。全体をわかりやすく6つに分けてみますと、次のようになります。第一番目は人間となった神のみことばとしてのイエス・キリスト、第二番目は文字となった神のみことばとしての聖書、第三番目は旧約聖書についてのイエス・キリストの証し、四番目は旧約聖書についての使徒たちの証し、五番目は新約聖書についての使徒たちの証し、そして六番目は神のみことばに対する信仰です。この六つの点について考えてみたいと思いますが、第一番目は人間となった神のみことばとしてのイエス・キリストです。

 主なる神はイエス・キリストをとおして私たち人間にご自身を啓示なさりたいと思われた時、次のようになさいました。ピリピ書2章7節に
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

と。イエス・キリストというまことの人間のかたちを通してのみ、私たちは主なる神を具体的に把握し知ることができたのです。みことばそのものである神は隠されたままにいることはなく、人間となり、私たちは神の栄光を見たと主イエスの弟子たちは言わざるを得ませんでした。すなわち、私たちは神の不完全さを見たのではなく、むしろ私たちは恵みとまことにしておられたひとり子としての栄光を見たのです。ヨハネ伝1章14節に書いてあります。ですから、主イエスは聖霊による処女マリヤから生まれなければなりませんでした。イエス様のご降誕については次のように記されています。ルカ伝1章35節です。
御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

と、書いてあります。

※不思議や不思議。今日のベック兄のメッセージはちょうどクリスマスに触れています!今日のクリスマス・カードの図柄の聖句は申命記32:11〜12と詩篇5:8です。) 

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