2016年12月5日月曜日

まことなるかな 愛

 大村湾夕景色 長崎県  12.3

ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられる。(ホセア3:2) 

 そのみことばを、疑いもなく、その根底にある人格的な適用をなし、「主から目をそむけ、迷い出て不信仰な目を持ち、他の助けや希望へと目を移し、この世的な喜びを愛し、この世的な満足を追求した私に対する主の愛、そのような私にさえ向かってくる主の愛」と言いなさい。

 次に主が次の聖句で「 私は(銀十五シェケルと大麦一ホメル半で)彼女を買い取った。(ホセア3:3)」と、言い表わすことの出来ない愛のへりくだりのうちに、象徴的な銀や大麦でなく、キリストの尊い血をもってへりくだって、言われたことを聞きなさい。

 さらに、このようにして、私たちを愛し、私たちを救い、私たちをまことに犠牲をもって買い、主は同じ態度でさらに「これから長く、私のところにとどまりなさい(ホセア3:3)」とおっしゃるのです。これは命令でもあり、固い約束でもあります。

 しかし、まさしくその約束は、私たちの過去の不信仰と変わらざる忍耐強い主によって保証される私たち自身の側の明らかにされた必要を暗示しています。主ご自身は私たちの信仰を保証しなければなりません。なぜなら、私たちが持続する信仰の望み以外に何もないからです。そのような愛が、私たちの完全で喜びのある明け渡しを勝ち取るでしょうし、そのような約束が、私たちの幸せで確信ある信頼を勝ち取ることでしょう。

 しかし、主はさらにおっしゃるのです。主は「私も、あなたにそうしよう。(ホセア3:3)」と。そしてこのことは、主がこのすばらしいことばをもって、私たちの献身の細かいところすべてにおいてどのように満たして下さるかを観察する時、はるかに偉大な愛の驚異に思われるのです。

おお 神様 あなたご自身のために造られた
あなたの愛 あなたの奉仕 あなたの喜びのために
あなたの英知 あなたの恵み あなたの力のために
あなたの賛美のために 造られた 
ベールをかむる 大天使は あなたを ほめたたえる
おお 不思議な 栄光ある考え
私たちは あなたに対して 喜びでありたい

しかし 心は 向きを変える
このすばらしい 祝福の定めから 
そして 考えるのだ
貧しい自我のために 過ぎ行く夢のために
日ごと 溶け行く 幻想を 追いかける
自分自身のために この世の最善を 読み続けて
ここはいこいの場所ではない(ミカ2:10)」と知るまで

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-5-love-indeed/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97504です。今日もいい加減な訳になってしまった。

※Godhold Beck(105)

『聖霊の人格と働き』[7]

 ロマ書8章の26節に御霊のもう一つの働きについて次のように書き記されたのです。
 「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」パウロ、また初代教会の人々は皆んな立派だったと多くの人々は考えていますけど、決してそうじゃない。ここで何と書いているかと言いますと、「私たちは弱い者です。そして何も知らない者です。」とはっきり告白されています。自分の弱さ惨めさを感ずる人はやっぱり主に頼るようになります。そういう人々だけが満たされ、用いられるようになります。すなわち、われわれはこの態度を取ると、主は導くことができ、聖霊はイエス様の栄光をあらわすことが出来るのです。

 このコリント第一の手紙の6章の20節の言葉をほんとうに非常に大切な言葉です。「あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光をあらわしなさい」「あなたがたは神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではない」自分自身からの解放とは何という救いでありましょうか。もし、私たちが内住の主を知るならば、自らを全く主に明け渡し、主の支配にこの身をまかせなければならない。自分が神の宮であることを知ったその瞬間、自分のからだ、自分のすべては、自分のものじゃない、主なる神のものであることも知るようになります。

 御霊の支配に自分自身をゆだねることこそが、まことの解放です。

 私たちはみな、特に今日洗礼を受ける兄弟姉妹は「私と私のものを欲しない、私は、あなたの他に慕うものはない。みこころのままに動きたいという主におささげしおゆだねした心の態度になっているならば本当に祝福されます。

 前に言いましたように、洗礼とは自分の信仰を公に証しする手段です。それだけではありません。洗礼は聖霊の支配のもとに置かれることも意味します。前に言いましたように主なる神は人間の罪を罰せざるを得ない。だから、神は我々の死を望まれました。「罪を犯した魂は死ぬべし」と聖書は言っているのです。けど、一人子なるイエス様を十字架におつけになられることによって全人類の罪は罰せられたのです。そして、私たちは洗礼を受ける時、自分自身の生活は十字架で、その終わりを告げたと告白すべきではないでしょうか。

 イエス様ももちろん洗礼を受けたのです。けどもイエス様の受けた洗礼とわれわれの受けた洗礼はちょっと違うんです。けども、ある意味で洗礼はイエス様の公の生活の始まりだったと言えます。イエス様は洗礼を受けることによって、新しくすべてを聖霊の支配のもとに置かれたと聖書は言っているんです。すなわち、イエス様は父なる神の考えなしに、自分の考えで物事を決定することを意識して退けました。イエス様の考えはもちろん完全でした。イエス様は神の性質の持ち主であり、イエス様は罪を犯す可能性がなかったんです。

 それにしてもイエス様は自分の考えで物事を決定することを意識して退けられたのです。イエス様は人間や弟子たちや悪魔の影響を受けることを意識して拒んだのです。イエス様はいつも聖霊によって与えられた言葉だけを語られたのです。イエス様のなされたことは聖霊に導かれてやられたことだった。すなわち、イエス様の態度はわたしの思いでなく、あなたの御心だけがなるようにという態度だったんです。

 わたしの判断でなく、あなたの判断であるように。わたしの考えではなく、あなたの考えになるように、と。結局、イエス様でさえもご自分の考え、ご自分の思いに対して死んでおられたということです。イエス様を信ずることは自分を信じないことを意味しているんです。

 これがイエス様の洗礼の意味でした。そして、これは我々の洗礼の意味でもあるべきです。パウロまた今日洗礼を受ける兄弟姉妹は次のように証しする特権が与えられるのです。よく笹川兄が引用される箇所です。ガラテヤ書2章20節21節です。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」

引用者註:このあと洗礼を受ける方約20名の方々の名前が順次に読み上げられる。その度にお一人お一人を祝福する拍手が沸き上がる。15歳から76歳までと言われている。私が知っている家族の方の名前も読み上げられていた。ほぼ30年前のことだ。それにしても何と静謐な大村湾の夕景色であることか!) 

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