2016年12月2日金曜日

余りにも弱すぎて手探りすらできません

あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。(イザヤ50:10)

 私たちが全然何も見ることができない時、また暗やみの中でなすことも踏みとどまることも信頼する何物もない時があります。暗やみの中に歩を進めているようにさえ思われず、ミカのように私たちが「やみの中にすわっていて(ミカ7:8)」大変弱くなり、手探りすらできない時があります。

 そのような暗やみはしばしば特別な働きや尽力のあとや、非常にしばしば大きくて興奮するような成功のあとや、時には尋常ではない生き生きとした霊的祝福のあとですら、無気力になったり疲れている時に訪れます。

 激しい病のあとの回復期、ゆっくり補完する際になし得る以上に無理じいした神経のエネルギーが使われたとき、ほとんど「地にこぼれる」ばかりであったいのちの杯は特にそのような無気力にかかりやすいのです。そしてその段階以上には決して起こらない、また「ほんの少し良く」なった以上には決して興奮しない受難者たちはその影はおそらくすべての中で最善だと知るのです。

 それはそう言わないが、私は主イエス様はそのことをご存知だと思います。なぜなら主は万事において私たちを主に似るようにされ、主がご自身で引き受けられたご性質のあらゆる生来の経験の原因だけでなくその結果も甘受するようにさせられたからです。

私はあなたの御声を聞くことができません 主よ
あなたは まだ 私の叫びを 聞いてくださらないのですか
私は あなたが絶えず近くにおられるという
あなたの 確信に より頼んでいます
私は あなたが誠実な方であることを 知っています
信じていますが 今見ることは出来ません
しかし それは あなたが私を導かれる なお正しい道であるからです
私は勇気あふれ 喜びの心をもって 前進できたらなあーと 思います
たとえ あらゆる歩みが 私を 未知の恐ろしい痛みで 突き刺そうとも
もし 私があなたを見さえするならば
もし 私が上なる方を 見つめさえするならば
そこには あなたの愛という 雲一つない日の光の栄光が あります  

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-2-too-feeble-to-grope/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97501です。

※Godhold Beck(102)

 聖霊の人格と働き[4]

 第二番目に、「義」について目を開かせるのも聖霊である、とここで書いてあります。すなわち、イエス様によって救いが提供されているというこの事実に他なりません。イエス様はこのように私たちを義と認めるです。「義」とはものではない、イエス様御自身です。コリント第一の手紙1章の0節に、「キリストは私たちにとって義となられた」と書いてあります。永遠のいのちも同じです。永遠のいのちも決してものではなく、イエス様御自身です。ですから、聖書ははっきりと「イエス・キリストを持つ者は永遠のいのちを持っているのであり、キリストを持っていない者は永遠のいのちを持っていない」とはっきり言っているのです。「義」もイエス様御自身です。この「義」であられるキリストを信頼し受け入れる者は義とされます。

 義とされることとはもちろん罪の赦しを得ることよりも、神はその罪を永久的に忘れてしまったと確信することです。すばらしい事実です。人間絶対できないことです。たとえば争いのあとで、ちょっと「ごめんなさい、許してともちろん言えますし、相手の人は「いいよ、いいよと言うでしょう。けど、また何かあればまた前のこときれいに思い出す(笑い)忘れません、忘れようと思ってもできない。心の傷は結局残ります。神は違う。神は、わたしはあなたの罪を心に留めません、永久的に忘れます。これこそが神によって義と認められることです。

 これも、もちろん聖霊のはたらきの結果です。コリントにいる信者たちにパウロは次のように書いたであります。第一の手紙6章11節にあなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。(彼は本当に、とんでもない罪を犯してしまったんですけど)しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」と書いてありますね、「御霊によって」「義と認められた」と書いてあります。ですから、聖霊のはたらきがなければ、誰も義と認められません、とはっきり言えるんです。

 主なる神の前に義とされるのは、従って、決して人間の行ないや、努力によるのではなく、ただイエス様を信ずることによるのです。ローマ書3章28節に「人が義と認められるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのです」信仰のあらわれとは、結局主に向かって叫ぶことです。「憐れんでください」「赦して」「恵んでください」またパウロはローマにいるクリスチャンたちにローマ書5章1節に書いていますけど、次のように書いたのです。「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」御霊によって、信仰によって、神の憐れみによって、人間は「義」と認められます。

 そして、聖霊のはたらきの第三番目の点は、「さばき」について、「目が開かれる」ということです。さばきについて目が開かれるのも、聖霊の働きによるのです。イエス様を個人的にまた意識的に受け入れない者は、誰でもさばきを受け、愛の泉、喜びの泉、いのちの泉であられるまことの神から、永遠に離れた状態にとどまらなければなりません。人間は皆神から離れている者です。そして、神から離れている者として、永遠の死に服さなければなりません。しかし、イエス様は全人類の身代わりに死んでくださり、人間の受けるべき罰をお受けになって下さったのです。この点をいつも強調すべきじゃないかと思うのですね。

 新興宗教は、よく何かあれば、うまくいかなければ、あなたの罪の結果だよ、だから癌になった、だからうまくいっていない、成功しない、あなたは悪い子であるからです。聖書の言っていることは全く違う。まことの神は人間を罰しようと思いません。なぜなら、本当の意味での天罰をお受けになったのはイエス様だったからです。イエス様は代わりに罰せられ、除け者にされ、捨てられてしまったから、だから神は人間を罰しようと思いません。いろいろなことで悩んで苦しんでいる人々にいつも逆のことを言いたい。天罰じゃなくて、あなたが苦しんでいるのは特別に愛されているらしい、おめでとう(笑い)。

 今わからないことだけなんですけども。主はやはりいろいろな病気、いろいろな問題、悩みを与える方です。けども、これは罰じゃなくて、神の愛の一つのあらわれです。それによって、永遠なる幸せを得るようになれば、まわりの人々はそれによって導かれれば、それこそ素晴らしいのではないでしょうか。たとえば、もしどなたか奇跡的に癒されたとします。まわりの人々が「良かった!良かった!おめでとう!」としか言えません。誰も悔い改めようとはしませんし、誰も自分の死後の世界の運命について考えようとはしないでしょう。

 けれども、もしどなたか癒されないで、笹川兄の場合はどういうふうになるかわからんけど、今の段階でちょっと無理らしいけど、彼はやっぱりもう癌だ、手遅れだ、おしまいだとわかりながら、喜びに満たされています。彼を見ると、やっぱり誰でもイエス・キリストこそが本物だと認めざるを得ません。結局、彼は癒され、今まで癒されなかったんですけど、けども死んでも一足先に行くことだけなんですけど、「待っているよ」、この態度を取っているから、結局多くの人は彼のような態度を取らないと罪だ、彼のように徹頭徹尾主に信頼しないと聖霊は働くことができないとわかるようになり、そして救われていない人々はもちろん飢え渇きを感じ、このようなものを欲しいと思うようになります。

 主は、さばこうと思いません。色々な重荷を通して、悩み苦しみを通して自分の愛を明らかにしようと望んでおられます。どうしてであるかと言いますと、イエス様御自身が私たちの代わりに罰せられ、神のさばきの的になられたからです。イエス様に信頼を置くならば、恵みによって義とされ、この素晴らしい贈り物を意識して拒み、自分勝手な道を行く者には望みがありません。救いがありません。この真理を明らかにするためにも、聖霊は一生懸命働いておられます。この真理を素直に肯定する者には、本当の悔い改めと罪の認識があるのです。罪を告白し、罪から離れると言う者は結局イエス様を信ずるようになります。

引用者註:この録音は1987年6月7日のものと思われる。メッセージの中で笹川兄のことが触れられているが、この方はその年の9月28日に召されている。なおこの年の復活祭[イースター]は4月19日である。それから50日目が五旬節だからである。なおこの笹川兄の証は『光よあれ』4集の79頁に掲載されている。)  

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