2016年12月17日土曜日

与えるには犠牲が伴います

by Toshihiro H.
彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。 
費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。(2サムエル24:24)

 けれども、私はわがままと不必要な贅沢が真の献身と一体全体どのようにして共存できるのか全然分かりません。もし私たちがほんとうに主のために何もなしに決して済ませないのなら、だが、ちょうど主は私たちに恵み深く富を与え、つねに私たち自身のためにあらゆる必要だけでなくあらゆる細々したものまでも供給して下さったから、私たちが神の御前で問題を詳しく調べたのはちょうど良い時だと思います。
 
 なぜ、裕福でない人々だけが、何かしら犠牲を払ったものを主にささげる特権を持っているのでしょうか。 それは単に私たちが生まれながら持ったり行動するのを好むものなしに済ませるだけでなく、イエス様のためにそれなしに済ますことだということを認めなさい。

「私はそれなしに済ませたい。なぜなら、結局私はそれを全く手放すことができないから」さもなくば「言わせてもらえば私はお金を使わなかったことを喜んでいるから」いや「私はそれなしにしたい、なぜなら私は私を愛する主のためにもう少ししたいから もし私がこの他のことをしたなら私ができるよりもはるかに多くのことを」

 私はこれが大抵、いかなる切りつめも、全然計画もせず自由に与える人々よりも、切りつめ計画しなければならない人々の言語、心であると思います。神様の良い贈り物が非常にありあまることも、余りにもしばしば、贅沢や、快的や、並みでないのにほんとうにささげられる特権や喜びを妨害し、主に対してなおさらそれをちょっと与えるのかもしれないのです。何と哀れなことでしょうか!

全部 最後まで 余すところなく
主は 上げるために 身を低くされる
その私の偉大な大祭司の祭壇こそ
私の贈り物を 聖別されるところだ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-17-giving-must-cos/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97516です。 

※Godhold Beck(117) 

『聖書とは何か』第二部[完]

 パウロは神が語ってくださる預言者であることをよく知っていたので、彼が書き記す事柄に対して完全な権威を要求しています。したがって私たちはパウロを神の預言者として認め、神の要求を信ずるか、さもなければきちがいとして彼を退け、彼のことばを一言も信じないかのいずれかです。

 パウロの書いたことばに新たに耳を傾けましょう。

コリント第一の手紙14章37節に
自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。

と、書いていますし、ガラテヤ書1章8節に
しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。

と。テサロニケ第一の手紙2章13節に
こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。

コリント第二の手紙13章3節に
こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。

と、書いてあります。

 主なる神はちょうど預言者を口として語られたように、使徒たちの口を通してお語りになるならば、当然のことながら人間は神のみことばについて議論したり、その信憑性を調べたり、人間の理解力や意志に合うかどうかを考えたりすることは許されません。 新約聖書の福音は無条件の服従を要求します。「聞きなさい。従いなさい。」ということは従って新約聖書が読者に対して無条件に立てる要求でもあります。神のみことばに対する完全な肯定、すなわち人間の理解力・気持ち・意志をみことばに服従させることはそれゆえにキリスト者のあらゆる倫理道徳の土台です。

 このようにして必然的な一つの結論に辿り着きました。すなわち私たちは旧約聖書と同じように、新約聖書においても全く同じ証しを見出すことができます。すなわち、神は特にそのために召された人たちの口を通してお語りになられました。神のみことばを宣べ伝えた人々は旧約聖書においては預言者と呼ばれ、新約聖書においては使徒と呼ばれます。使徒たちの与えられた啓示は、預言者によって受け取られた啓示よりもはるかに広く深いもので、それですから新約聖書の中で両者を上げる時にも先ず使徒たち、それから預言者たちというふうに、使徒たちが優先されており、次のようにして教会は建てられたことが私たちに証しされています。エペソ書2章20節に
あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

と、書いてあります。したがって、旧約聖書と新約聖書の喜びの訪れは統一されています。聖書は教会の唯一の土台です。聖書こそが不動の土台であり、信者たちの教えと生活に対する唯一の権威です。主なる神のお語りになったみことばは使徒と預言者が受け取ったことばとして変わることがありません。すなわち、送り手のことばと受け手のことばとは等しい、ということがここでも立証されます。

 今まで私たちは大きく分けて第一に主なる神が聖書の発起人、起草者、すなわち著者そのものであること、そして第二に神のみことばが、人間、すなわち使徒と預言者に与えられ、吹き込まれたことを見ました。

 最後に5つのことを述べて終わりたいと思います。聖書とは何なのでしょうか。第一は聖書の年代についてで、一番古い部分は紀元前1500年ごろ書かれました。それは今から3500年前のことで、日本でもっとも古い本、古事記・日本書紀よりも2000年も古いのです。聖書の期間について一番新しい部分は紀元90年ごろ書かれました。創世記からヨハネ黙示録まで1600年という驚くべき歳月をかけて書かれました。聖書の著者について、身分、職業、学識の異なった40人ほどの人々によって書かれました。彼らは住んでいる場所も年代も違うので何の連絡も取らずに各自がそれぞれ独立して書きました。聖書の内容について、こうして書かれた本でありながら、聖書は完全な統一を保ち、主題が一貫しています。また古い時代に書かれていながら、今の人々の心には強く迫って来る不思議な本です。聖書の普及について1400以上の国語と方言に訳されている聖書は世界でもっとも広く読まれている本で一年間に3500万冊も売れている超ベストセラーであります。

引用者註:このメッセージの中では日本人でも中々使い慣れない「しんぴょうせい」という表現が出てきたり、一方では「最後」と言うべきところを「さいしょに」と言われていたり、随分苦心なさってメッセージなさっている様が窺える。そして恐らくご家庭でのマイクに向かっての録音であろう。ゆったりとした時間が流れていて好もしい。これで第二部が終わった。引き続いて第三部を明日から連載したい。なおベック兄は、聖書が正しい日本語に置き換えられた新改訳聖書第二版を大変評価されていた。さて、写真は畏友が昨日送信して来られたベック兄の2015年1月10日における吉祥寺集会所での写真である。)

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