2016年12月30日金曜日

無限の愛の導水

白子鳩 群れ広がりて さんざめく

なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)

 聖霊はキリストの愛を啓示し、私たちの心のうちに神の愛を注ぎます。この(生来の)愛は、まるで新しいお方を見つけるかのように新しい愛の原理に導かれるのです。そのお方のうちに見るすべてのものが、この愛に新しい深みと新しい神の性質を与えるのです。この愛は聖さ、美しさ、栄光を見るにつれ、自らのうちにある罪深さ、無価値を深く覚えさせられます。また知識を越える愛を一瞥さえし、驚きと感謝の思いにとらわれます。
 
 そして、血で贖われた赦しにより、もっとも深い必要へと近く引き寄せるその愛を知る時、この愛は強められ掻き立てられるのです。もはやこれ以上に主の愛を推し量る時はありません。私たちを愛するために刺し貫かれた(十字架のイエス様の)足もとで、私たちは涙を流してこの生来の愛のうちにあるすべてを注ぎ出すにちがいありません。

 次に何があったでしょうか。その愛の流れは次第次第にゆっくりとなり、浅くなって行ったのでしょうか。私たちの主は「私の兄弟たちは川のように裏切った。流れている川筋の流れのように(ヨブ6:15)。」と言う理由があったでしょうか。「あなたの年ごろは恋をする時期になっていた(エゼキエル16:8)。」その時に私たちは恋をしていて、主を愛し続けられなかったことを知るとは何と恥ずかしいことでしょうか。私たちにはできなかったことが明らかになったのです。このことを主はできるということを証明する踏み石とだけしましょう。

愛する方 あなたはイエス様のために 輝いていますか
あなたは 心を イエス様に あずけたことがありますか
しかし その光は 心のうちにあって 強いですか
それとも 薄く 消え入るばかりですか
誰もが 見ることが できますか
イエス様が あなたにとって すべてであることを
あなたのイエス様に対する愛は 燃えていますか
輝ける暖かさと 真実をもって
額には 印が ありますか  
そうであるなら あなたは 知られているに違いありません
あなたは 「イエス様のためのすべて」で あると
あなたの心は 全部 イエス様の ものであると 
 

※Godhold Beck(130)

『聖書とは何か』第四部[6]

 今まで私たちは二つのことについて考えて参りました。第一番目は人間となった神のみことばとしての主イエス様。そして、第二番目は文字となった神のみことばとしての聖書でした。続いて第三番目で、すなわち旧約聖書についてのイエス・キリストの証し、という点について考えてみたいと思います。聖書のことばはどれもみな本当に神のことばなのでしょうか。私たちはまだこの問いに答えるためにただ一つの道を持っています。すなわち私たちは聖書自身に訊ねなければなりません。

 聖書が、聖書にふくまれている一つ一つのことばが本当に神のことばであることを要求しているのでしょうか。そしてまた聖書の一つ一つの文字が神の権威を持ち、それゆえに永遠に続くものであるということを要求しているのでありましょうか。私たちはこのことについてイエス様御自身よりも偉大な人に訊ねることができません。主イエス様こそ最高の権威なのです。パウロはコロサイ書の中でイエス様について次のように書き記したのです。コロサイ書2章9節
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

3節
このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

と、あります。この主イエスは神の権威を持って旧約聖書全体を神のみことばと言っておられます。しかし、神のみことばは、誰一人改善したり、補ったり、変更したりすることのできない最高のみことばです。主イエス様は旧約聖書を100%信じておられました。そして旧約聖書の一つ一つのみことばはイエス様にとって手をつけてはならない神聖な神のみことばでした。主イエス様を信ずることは旧約聖書に対して同じように信頼を置くことを意味します。イエス様は一つ一つのみことばが聖書に書いてあることを何でも保障して下さり、旧約聖書全体が真理そのものであることをはっきりおっしゃいました。

 ですから、私たちは聖書のことばがどれもみな神のことばであることを、他の方法で証明する必要はありません。真理そのものである主イエス様が、聖書の霊感を100%信じておられますから、私たちもまた聖書の霊感を信ずることができます。世の光であるイエス様はいろいろな疑いの影をすべて追い払わなければなりません。主のみことばはあらゆる人間のことばや理解力にまさるものです。聖書の理解に対する決定的に大切なものは、イエス様のお取りになられた態度でした。

 聖書は、イエス様にとって、力の源でした。イエス様が旧約聖書のみことばを引用する時、その確信は巌のように堅固なものでした。神のみことばは真理そのものであると、信じて疑わなかったお方です。主イエス様が聖霊による荒野に導かれた時、悪魔と言う恐ろしい敵に立ち向かうただ一つの武器は、みことばの力だけでした。マタイ伝4章1節から10節までお読み致します。
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

と、あります。もしもイエス様がみことばに対してほんの少しでも疑いを持っていたならば、すべては崩れ去り、敗北者となっていたことでしょう。みことばこそイエス様が勝利を治めることのできた武器となったのです。

引用者註:イエス様が旧約聖書を全面的に信頼しておられた。これほど確かな旧約聖書の「霊感」を説明する根拠はありません。 ) 

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